内記坂の謎

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代官山駅東口から恵比寿の五差路まで続く坂道を「内記坂」といいます。「江戸時代ここに「横山内記抱屋舗」があった。ごれが坂名の起こりとなった。」と、『渋谷の坂』(白根記念郷土文化館編 渋谷区教育委員会1985)には記載されているそうです。

分間江戸大絵図 1772年(明和9年)

1772年(明和9年)に作成された『分間江戸大絵図』には、松平肥前守屋敷の脇に「ナイキ坂」と記載されています。
この時代、横山内記刀之助という旗本寄合がいたようで、この横山家は常火消しの役に着くことが多かったそうです。また、横山内記○○と名乗ることが多かったようです。

御府内場末往還其外沿革圖書 1858年(安政5年)

1858年(安政5年)に完成した、江戸の延宝年間から幕末までの土地利用の変遷を示した地図集『御府内場末往還其外沿革圖書』に掲載されている延宝年間(1673年から1681年までの期間)の土地利用の状況を示した図に「横山内記抱屋敷」の位置が記載されています。

御府内場末往還其外沿革圖書 1858年(安政5年)

説明書きの部分には、中央に「中渋谷村之内ニ 横山内記 弘化二巳年(1845年)中より稲葉富左郎抱屋敷成」と読める部分があります。つまり、横山内記の屋敷は、1845年以降は稲葉富左郎の屋敷になったということです。

御府内場末往還其外沿革圖書 1858年(安政5年) ※赤丸:横山内記抱屋敷位置

『御府内場末往還其外沿革圖書』の当時(1858年頃)の形を示した図では、稲葉富左郎抱屋敷の北側に内藤能登守抱屋敷が描かれています。
この内藤能登守抱屋敷の敷地が、現在の乗泉寺やセンチュリーフォレスト代官山、ラ・トゥール代官山が建てられている敷地で、明治期には日本銀行総裁、立憲民政党の最高顧問などを歴任した山本達雄の別宅があった場所です。
したがって、この図の南側に描かれている道が現在の八幡通りであることがわかります。
そうであるとすれば、横山内記抱屋敷は、八幡通りの北側、現在の猿楽町にあったことになりますので、現在の恵比寿西1丁目と2丁目の境界になっている「内記坂」の沿道には位置していないことになります。

御府内場末往還其外沿革圖書 1858年(安政5年) ※赤丸:横山内記抱屋敷位置

『御府内場末往還其外沿革圖書』のこの付近の全体を示す地図では、恵比寿西1丁目・2丁目の辺りには畑地と入会地の記載があるだけで、大名の屋敷はもとより「内記坂」に該当する道すらも描かれていません。

目黒筋御場絵図 1805年 (文化2)

しかし、1805年(文化2年)に作成された『目黒筋御場絵図』をはじめ、その他の地図にも「内記坂」に相当すると考えられる道がはっきりと描かれています。したがって、この道が古くから存在していたものであることは確かであろうと思われます。

分間江戸大絵図 1828年(文政11年)

これは、1828年(文政11年)に作成された『分間江戸大絵図』ですが、「ナイキ坂」は松平山城守屋敷の脇に描かれています。

江戸時代、大名に対しては頻繁に領地替えがおこなわれていたようではありますが、1772年(明和9年)に作成された『分間江戸大絵図』に記載された松平肥前守は深溝松平家で、1774年(安永3年)以降明治維新まで肥前国島原藩主だったようです。
一方、この地図に記載されている松平山城守は藤井松平家であるだろうと推察されます。藤井松平家は1707年(宝永4年)に出羽国上山藩山城守に任ぜられた後いくつか遷任したようですが、その子孫は幕末まで出羽国上山藩に定着したそうです。
したがって、百年以上の時間差があるわけですが、「ナイキ坂」が接している松平家の屋敷は、異なった家系のものであることになります。これは不自然ではないかと感じるところです。

※但し、横山内記刀之助の祖先である加賀前田家家老の横山長知が、大阪夏の陣(1615年)に徳川方として参陣し、戦功により山城守に叙任されたという事実はあるようです。しかし、松平が横山の誤記であるとは考え難いでしょう。

また、鎌倉幕府の時代から続く鎌倉道のひとつであった現在の八幡通りが一筋の道としても描かれておらず、この『分間江戸大絵図』における江戸府辺境部分の記載については、かなり信憑性が低いのではないかと考えられます。
ちなみに、地図上「世田ケ谷」と書かれた道は、ヒルサイドテラスと東京音楽大学の間の目切坂から続く道に該当するものと考えられます。

いずれにしても、何故、恵比寿西1丁目と2丁目の境界の道路が「内記坂」と名付けられたかは謎のままです。

代官山の歴史シリーズ
1.江戸時代の代官山
2.内記坂の謎
3.明治時代の代官山の土地利用
4.西郷家と岩倉家
5.てんぐ坂の由来とたばこ王・岩谷松平について
6.西郷従道邸のこと
7.三田用水分水路の水車と明治・大正時代の代官山の産業
8.代官山に東横線が通るまで
9.昭和初期の代官山-お屋敷町の形成-
10.大正時代の都市計画と昭和初期の代官山の道路事情
11.同潤会代官山アパートメントの完成
12.敗戦後の代官山
13.代官山集合住居計画にはじまる1970年代の代官山
14.雑誌記事で辿る1980・90年代の代官山
15.同潤会代官山アパートメントの記憶と代官山地区第一種市街地再開発事業
16.21世紀を迎えた代官山は…

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