西郷家と岩倉家
西郷従道は西郷隆盛の弟であり、最終的には最初の元帥海軍大将になるとともに明治政府の多数の役職を歴任した政治家でもあります。
岩倉具視は公家であり、明治維新十傑のひとりとして公家側の中心的役割を担うとともに、明治新政府樹立後は実質的な政権首班の地位に就きました。
この地図は、大日本帝國陸地測量部によって1909年(明治42年)に測図された旧版の縮尺一万分の一の三田と世田谷の地図を合成し拡大したものです。
当時は日向と呼ばれていた、現在の青葉台2丁目、上目黒1丁目の辺りに「西郷邸」と「岩倉邸」の表記が見られます。
西郷従道の孫の西郷従宏が記した『元帥 西郷西郷従道伝』には「永田町は本邸であって、常時家族が住み、目黒は別荘というわけで、同じ東京に家が二つあるのはおかしいようだが、当時の交通事情から、現在伊豆附近の別荘に行くのと時間感覚で似たようなものであったらしい。」と書かれており、代官山辺りは明治新政府の要人が別荘を持つ候補地のひとつだったことが窺えます。
岩倉具視も明治新政府から二重橋前の旧大名屋敷が払い下げられていましたが、1878年(明治11年)に、目切坂の元富士の脇の土地(現在のキングホームズから東京音楽大学までの一帯)に別邸を構えました。
西郷従道が旧豊後岡藩主中川家の抱え屋敷跡地を、一旦その払い下げを受けた高畠氏から購入したのは、西郷従道が台湾征討をおこなった1874年(明治7年)頃で、その恩賞の大金で購入したと云われています。
永田町の本邸は、明治20年頃に当時の三年町(現在の首相公邸近く)に転居した後、1901年(明治34年)に有栖川宮威仁親王に譲渡したため、それ以降は目黒の別荘が本邸になりました。
明治新政府では極めて密接な関係にあった岩倉具視と西郷従道ですが、家同士の結びつきも極めて強かったようです。
西郷従道の二男で家督を継いだ西郷従徳は、岩倉具視の孫で次女の岩倉豊子と結婚しました。両家の結びつきはそれだけに留まらず、西郷従道の長女西郷桜子は岩倉家の家督を継いだ岩倉具視の孫で長男の岩倉具張に嫁ぎました。
同世代で2組の姻戚関係を持つというのは、現代の感覚ではなかなか珍しく、両家の因縁の深さを感じさせます。
西郷桜子が嫁いだ岩倉家長男の具張ですが、1910年(明治43年)に父岩倉具定が亡くなったため33歳の時に家督を引き継ぎました。
若い頃の具張は、日本初の美男子コンテストに応募するほどの美男子だったようですが、芸者遊びが大好きで、足しげく花街に通っていたそうです。とくに新橋の芸者の桃吉に入れあげ、麹町に「桃吉御殿」と呼ばれる屋敷を作ったり、有楽橋に洋食店「ささや」を持たせたりしたそうです。
同時に、投機的商人に北海道の鉄道建設予定地と聞かされた土地を、買い漁ったところ、実際の鉄道は三菱財閥の岩崎家が購入した土地を通ることになり、当時の金額で300万円、現在の貨幣価値に直すと100億円以上の負債を抱えることとなり、その穴埋めに高利貸しに手を出したところ、1914年(大正3年)に、霞が関の本宅を差し押さえられてしまうことになりました。
そのため、岩倉家の親族会議の結果、強制的に家督は長男の具栄に譲って、隠居させられることになりました。これにより、妻の桜子と娘の初子は実家の西郷家に戻ることになり、娘の初子は西郷家の養女となりました。
この地図は、丸善好文館が1916年(大正5年)に発行した地図ですが、こちらには「西郷邸」と「上村邸」の表記が見られます。
上村邸は、元薩摩藩の士族で日露戦争の日本海海戦では第2艦隊を指揮した海軍大将上村彦之丞の屋敷です。(第2艦隊指揮官時は中将)
屋敷前の坂道は、この屋敷があることにちなみ、上村坂と呼ばれました。
上村彦之丞は西郷従道の四男の従義を跡取りの養子として迎えているので、西郷家と上村家の結びつきもたいへん深いものと推察できます。
西郷従道の次女不二子は、足尾銅山を再建し古河鉱業を経営した古河財閥の三代目である古河虎之助の妻となりました。
古河家は西郷邸と三田用水を挟んで隣接する、現在の鉢山町に屋敷を構えました。この土地は、西郷家が近隣農民から購入を請われて取得した土地の一部と考えられ、不二子の持参金として譲渡された可能性が考えられます。
また、西郷従徳の次男、従純は、古河財閥の跡取りとして古河家の養子に迎えられ、古河財閥四代目当主となりました。
ちなみに、古河家は明治38年に現在の北区西ヶ原に現存する旧古河庭園の場所を外務大臣陸奥宗光から引き継ぎ、大正3年から6年にかけて古河家の本宅として現存する西洋館と庭園を整備し、大正6年にはその屋敷に転居しています。従って、代官山の屋敷は岩倉家の屋敷などと同様に別邸の扱いだったのではないかと考えられます。
一方、岩倉家の方では、岩倉具張の弟の具顕の娘、岩倉具子は、小桜葉子の芸名の女優であり、日本における美容体操の草分けと言われていますが、1936年(昭和11年)に加山雄三の父である俳優上原健と結婚しました。
真偽のほどはわかりませんが、猿楽町在住の長老の話によれば、一時期、上原健は猿楽町の庭付きの屋敷に住み、庭では馬を飼っていたというお話を伺ったことがあります。
これは昭和10年頃の地籍図です。代官山の古河家の屋敷は、現在の都立第一商業高校の北側のNTTコミュニケーションズ鉢山ビルなどがある一帯を占めていたことがわかります。
周囲にはまだ西郷家が所有する土地が多く残っていたこともわかります。
ちなみに、この地籍図の段階ではまだ旧山手通りの整備が完了していないこともわかります。
代官山の歴史シリーズ
1.江戸時代の代官山2.内記坂の謎
3.明治時代の代官山の土地利用
4.西郷家と岩倉家
5.てんぐ坂の由来とたばこ王・岩谷松平について
6.西郷従道邸のこと
7.三田用水分水路の水車と明治・大正時代の代官山の産業
8.代官山に東横線が通るまで
9.昭和初期の代官山-お屋敷町の形成-
10.大正時代の都市計画と昭和初期の代官山の道路事情
11.同潤会代官山アパートメントの完成
12.敗戦後の代官山
13.代官山集合住居計画にはじまる1970年代の代官山
14.雑誌記事で辿る1980・90年代の代官山
15.同潤会代官山アパートメントの記憶と代官山地区第一種市街地再開発事業
16.21世紀を迎えた代官山は…
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