三田用水分水路の水車と明治・大正時代の代官山の産業

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代官山地域には三田用水の分水口が2ヵ所あり、渋谷川に向けて2本の分水路が流れていました。農地が少なく地域のほとんどが雑木林だった代官山では、その用水路に架けられた水車を利用した産業がおこなわれるようになりました。電気が普及し動力源としての水車が衰退した後には、世界的なシェアを誇る企業の工場が立地していた時代もありました。


明治期の代官山の産業の様子を伝えるものとして『角谷製綿工場之真景』という錦絵があります。狩野章信の作といわれています。『渋谷の水車業史』には、角谷の水車について、『渋谷郷土特報 第49号』に記載された「日々是好日」の転載として、「おやじの角谷和市は愛知県三河国の出身。朝倉虎治郎さんと同郷、年令は朝倉さんより11か12年上であった。<中略>ぐるぐる回る水車の大きさは、直径2間(3.6m)、三田用水を桶で流し、水車はいつもよく回っていた。それだけで三馬力位の動力は得られた筈なのに、蒸気も使った。工場で働く人は男女で大体10数人、多くは地方出の人ばかりで、毎日よく働いてくれた。」と記載されています。
また、写真の『角谷製綿工場之真景』については「明治30年頃にできた絵であろう。」と書かれています。
角谷製綿工場の創業者角谷和市氏は、上京後に古綿の利用法を考究して、自ら製綿機を発明し、1893年(明治26年)に水車を動力とする製綿工場を創業したところ、日清戦争、日露戦争の勃発によって軍における綿の需要が高まり巨利を博すこととなったようです。しかし、時世の推移を考えて角谷製綿工場は1916年(大正5年)に廃業とし、東都無盡(無尽)商會を創立しました。
※Wikipediaによれば、「無尽(むじん)とは、日本の金融の一形態である。複数の個人や法人等が講(相互扶助団体)等の組織に加盟して、一定又は変動した金品を定期又は不定期に講等に対して払い込み、利息の額で競合う競りや抽選によって金品の給付を受ける。」と書かれています。
この文章の執筆者は角谷製綿工場の創業者角谷和市氏の長男の角谷輔清氏で、東都無盡商會の取締役社長を引き継ぎますが、1932年(昭和17年)に大日本無尽株式会社に売却した後、1933年(昭和8年)から第7代渋谷区議会議長に就任し、1953年(昭和28年)からは、2期に亘って渋谷区長に就任しました。

『渋谷の水車業史』渋谷区教育委員会 1986年
水車分布図『渋谷の水車業史』渋谷区教育委員会 1986年

水車分布図に記載されている26番の水車が角谷和市氏の水車ですが、『渋谷の水車業史』にはその所在地の住所は「中渋谷138」と記載されています。また、明治大正期の東京府の水車行政文書約1万2000点をもとに、1195台の水車台帳を復元した『近代東京の水車-『水車台帳』集成-』でもその所在地は「豊多摩郡渋谷町中渋谷138番地」となっています。同時に、このどちらの書籍にも同じ所在地の水車の記録が記載されており、その所有者は、『渋谷の水車業史』では高橋茂吉氏となっており、『近代東京の水車』では高橋茂吉外12名共有となっています。これは、『渋谷の水車業史』の水車分布図では32番ですが、1922年(明治44年)に隣の139番地から移転したと記録されています。水車にはそれぞれ名前が付けられていたようで、角谷和市氏の水車は「角谷(はりがね)の水車」。高橋茂吉氏らの水車は「鶯谷の水車」と名づけられていたようです。『近代東京の水車』では、どちらの水車も業種は精穀業で記録されていますが、『渋谷の水車業史』では、角谷和市氏の水車は米搗(こめつき)から製綿に業種変更したように記載され、備考欄には「蒸気力」の文字も記載されています。

『東京府豊多摩郡渋谷町全図』東京都逓信管理局 1911年(明治44年)
『東京府豊多摩郡渋谷町全図』東京都逓信管理局 1911年(明治44年)

1911年(明治44年)に発行された東京都逓信管理局の『東京府豊多摩郡渋谷町全図』には、角谷製綿工場が記載されていますが、その所在地は中渋谷字鉢山491番地から498番地までと489番地に該当する敷地になっています。しかし、『渋谷の水車業史』には27番の「永田の水車 甲」の所在地が中渋谷491番地になっており、『近代東京の水車』でも平峰元の二番水車の所在地として中渋谷字鉢山491番地が記載されています。
『渋谷の水車業史』では、「永田の水車 甲」の最初の所有者は木村浅右衛門で、その後山下為蔵(明治19年)、永田熊吉(明治22年)、永田進一(明治34年2月)、吉留利衛(明治34年4月)と所有者が変わった後に平峰元氏の所有となっています。『近代東京の水車』でも同様の所有者移転の記録が記載されていますが、平峰元氏への譲渡の時期についての記載は無く、1913年(大正2年)に廃業の申請者として平峰元氏が記録されています。
所有者の住所に着目してみると、木村浅右衛門の住所は荏原郡上目黒村298番地ですが、水車を譲り受けた山下為蔵の住所は水車が立地する中渋谷字鉢山491番地になっています。しかしその後の永田熊吉、永田進一、吉留利衛、平峰元の住所は荏原郡上目黒村298番地なので、家屋に付随する資産のひとつとして所有権移転がおこなわれてきたと考えられます。『渋谷の水車業史』の水車分布図には、代官山地域内に存在した11台の水車の位置が記載されていますが、このように30年間程度の短い期間の中で所有権が移転した水車はその内の7台にも及びます。

東京府が1897年(明治30年)に「水車業規則」を発布し、水車の許認可事務を東京府の行政下におくことにしたことによりこのように記録が残されているのですが、角谷製綿工場は錦絵に描かれるほど当時は有名だったのであろうと考えられるにもかかわらず、行政文書として角谷製綿工場の水車についての記録が残されていないというところが大きなミステリーです。

『東京府豊多摩郡澁谷町平面圖』1918年(大正7年)
『東京府豊多摩郡澁谷町平面圖』1918年(大正7年)

1918年(大正7年)発行の『東京府豊多摩郡澁谷町平面圖』には用水路の流路が記載されています。大正期にはほとんどの水車は廃業したため、昭和に入っておこなわれた旧山手通り(幹線環状道路第六号其の一補助線)の拡幅工事に合わせて、この用水路の道路化と西郷橋のトンネル整備がおこなわれたと考えられます。角谷製綿工場があった敷地には、現在レストラン マダム・トキなどの建物が建っています。
地図上の角谷製綿工場の所在地付近には、492番地から733番地まで通じる道路が表記されていますが、この辺りの元西郷従道所有地は古河虎之助(古河財閥三代目当主)の宅地となっており、この道路も用水路の道路化とほぼ同時期に消滅したと考えられます。現在、この辺りにはNTTコミュニケーションズ鉢山ビルが建てられています。


2014年05月10日撮影

この写真の道路(野沢通り)が、かつては用水路だったということです。道路化するにあたり掘り下げたのかどうかはわかりませんが、西郷山トンネルの桁下は3.7mと書かれています。もし用水路の標高が現在の道路面と変わらなかったとすれば、6m程度の落差があったのではないかと思われます。角谷和市の水車の水輪径は1丈2尺(約3.6m)、隣接する28番の永田 乙の水車の水輪径は1丈4尺(約4.2m)で、ほとんどの水車は水が水車の上方から掛けられる上掛水車の構造になっていたと云われていますので、いずれにしても相当の落差があったものと想像されます。ちなみに、西郷橋の付近の標高は33mで渋谷川の並木橋付近の標高は13mなのでこの分水路の落差は全体で20m程度あるということのようです。

精米工場の内部『猿楽雑記』
精米工場の内部『猿楽雑記』

『渋谷の水車業史』の水車分布図に記載されている11台の水車の内、25番(西郷山)と30番(山の川)については何の記述も無く、26番から29番までの4台の水車を除く5台の水車については、その業種は米搗(こめつき)または米麦搗と記載されています。『近代東京の水車』の記述では、精米業あるいは精穀業と書かれており、その多くは「営業用」だったようです。
これらの中でも最も大規模に精米をおこなっていたのが34番の朝倉精米所の水車でした。写真は、朝倉不動産の前社長朝倉徳道氏が著した『猿楽雑記』に掲載されている精米工場の内部の様子ですが、『渋谷の水車業史』には、「明治39(1906)年には電力化し大正3(1914)年頃には精米機3台をおき、1日に400俵を搗きあげるようになった。当時、米の運搬用の馬が27頭、その世話人が2名いたという。2年後には1日に600~700俵を搗き、運搬も馬に代えて荷物自動車2台、自動車4台、オートバイ12台、自転車90台で行い雇人も60~70人で盛況を誇り、当時にあっても東京屈指の大精米所であった。また、大正5年刊の『豊多摩郡誌』によると、「日本形水車1台(10馬力)、及び電動機一台(10馬力)をもって、年額米24,000石を精白す」という。」と書かれています。

長谷戸の水車『渋谷の記憶』
長谷戸の水車『渋谷の記憶』渋谷区教育委員会

この写真は、渋谷区教育委員会が編纂した写真集『渋谷の記憶』に掲載されている長谷戸(はせど)の水車の写真です。1909年(明治42年)頃の撮影と記載されています。左端にゆくほど露出過多になっているようでわかりにくいのですが、屋根が白くなってしまっている小屋が写っています。写真の中央には、門のような塀の先に小さな橋が架かっているように見えるので、この下が三田用水の鉢山分水口からの支流であると思われます。
この小屋が豊多摩郡渋谷町中渋谷419番地の長谷戸の水車の水車小屋で、当初は精穀業(営業用)であったものが、1907年(明治40年)には加藤製紐工場になったものであると考えられます。
『渋谷の水車業史』には「公立渋谷小学校が開校したのは、明治8年3月15日である。すなわち、三井八郎右衛門、森島伝兵衛、野口清衛門の有志三名が中心となって建築資金の寄付を青山7丁目、渋谷宮益町、中渋谷の人々に働きかけ、敷地は成富成風(海老沢惣右衛門所有地)の提供した中渋谷村二番地(1反4畝)の土地に定め、ワラ葺き平屋建て21坪の校舎が建設されたものである。<中略>ともかく、渋谷小学校はこのようにして発足したが、学校維持費は学校の近くの宮益水車の益金を充てていたが、明治22(1889)年に上中下渋谷村が合併して新渋谷村ができた時、たまたま水車の管理事情から、益金は学校へまわせなくなった。そこで村の有志長老がいろいろと協議した結果、みんなで負担金を出して村に新規に水車を設置して、その利益をいままでどおり学校維持費に充てることを約束し、その実現化につとめた。こうしてできたのが、中渋谷の長谷戸-現在の鶯谷町12番地-の水車である。」と書かれています。また、別のページには「この水車は明治22年に鈴木喜代治ほか6名が、渋谷小学校の運営費を生み出す目的で長谷戸に新設したものである。その後、経営者が鈴木常吉・鎌田辰五郎(明治30年)・黒野新助と変わった。黒野は明治38年に製紐器械12台を備え、製紐業に転換したが、そのあとを継いだ加藤幸三郎は明治40年に加藤製紐工場を設立した。加藤は日本形水車一馬力、発電機一馬力を設備し、事業を発展させたが、大正5年10月に廃業した。」と記載されています。
※成富成風は、明治新政府の役人で台湾領有を目的として台湾に派遣されたことがある

『旧一万分の一地形図』三田+世田谷 1909年(明42年)
『旧一万分の一地形図』三田+世田谷 1909年(明42年) 国土地理院

この地図は、旧一万分の一地形図の三田と世田谷を合体させたものの一部です。八幡通り沿いの現在の代官山郵便局がある場所辺りに工場の地図記号が付けられた建物が記載されています。これは、35番の炭屋の水車と呼ばれた津田亀太郎所有の水車で、その水輪径は2丈5尺(約7.6m)もあり、渋谷では最大の水車だったといわれています。最終的には搗臼(三斗張以上)を30台も設置し、精米業(営業用)を営んでいたようです。
精米業用の水車に何故「炭屋」という名前が付けられていたのかは不思議ですが、下渋谷には他にも「油屋」とか「糠屋」と名づけられた水車がありました。
三田用水猿楽分水路付近、つまり東急東横線の線路脇、あるいはキャッスルストリート沿いに、かつては業態としての炭屋があったという話は聞いています。しかし、その末裔は代官山で複数の「ヴォーグ代官山」というビルのオーナーである平沢さんではないかと考えられます。「炭屋の水車」の所有者は、中西清一(南豊島郡渋谷村下渋谷1128番地)から津田文兵衛(芝區浜松町1丁目8番地)へと移り、相続によって津田亀太郎が最後の所有者となりましたので、平沢氏との関係性は見出せません。これもミステリーです。

このように代官山では、明治から大正に至る時代に水車を利用した産業が立地していたようです。

『東京市渋谷区地籍図』1935年(昭和10年)
『東京市渋谷区地籍図』1935年(昭和10年) 内山模型製図社

動力源としての水車が廃れた後にどのような変化が訪れたかというと、鉢山分水路の周辺(現在の鶯谷町)には、関東大震災後の昭和初期に金属加工関連の工場が立地するようになったことが1935年(昭和10年)発行の『東京市渋谷区地籍図』で確認することが出来ます。地籍図上では「金線工場」「金モール工場」といった文字を含む事業者の名称が記載されています。

『東京市渋谷区地籍図』1935年(昭和10年)
『東京市渋谷区地籍図』1935年(昭和10年) 内山模型製図社

同じ『東京市渋谷区地籍図』の猿楽町1~9番地辺りまでの抜粋です。赤枠で示した場所に「逸見製作所」と「ヨット鉛筆松直工場」の記載が見られます。

「逸見(へんみ)製作所」は、ヘンミ計算尺株式会社の社史によれば、1895年(明治28年)に逸見治郎が計算尺の製作研究に取り掛かり、1909年(明治42年)に気候の変化による目盛のずれをできるだけ抑えることが出来る「孟宗竹」を使用した、竹製の計算尺を完成させました。計算尺とは対数の原理を利用したアナログ式の計算用具で三角関数や対数、平方根、立方根などの計算用に用いられる道具です。電子式計算機の無かった時代に理工学系の複雑な計算をおこなう時などに使用されてきました。スタジオジブリのアニメ『風立ちぬ』では、主人公、堀越二郎がゼロ戦などの戦闘機の設計をする時に使用していた風景が描かれています。
1914年(大正3年)から第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ製の計算尺の生産が途絶えたために国内外からの受注が急増し、1930年代以降には世界シェアの80%、国内シェアの98%を占めるまでになったといわれています。
逸見治郎がいつの時点に代官山に会社と自宅を構えたのかは不明ですが、逸見治郎の個人商店であった「逸見治郎商店」は1924年(大正13年)に一度焼失し、そのときに酒造メーカー「月桂冠」の大倉一族の女婿である大倉龜(ひさし)が経営参加を申し入れ、1928年(昭和3年)に合資会社「逸見製作所」が設立されました。関東大震災の被災により、多くの人びとが東京西部への移転を決意したこの頃に逸見治郎も移転してきたのではないかと推察されます。

松直商店の工場『とうよこ沿線 №35』
松直商店の工場1916年(大正5年)『とうよこ沿線 №35』1986年 とうよこ沿線編集室

この写真は東急沿線のタウン誌として発行されていた『とうよこ沿線』の代官山特集号(1986年)に掲載されていた「松直商店の工場」の写真です。写真左の畑は、現在は猿楽古代住居跡公園になっています。
『今日を築くまで : 立志奮闘伝』(東海出版編)には「松岡直治郎氏の巻」が掲載されています。その記述によれば、松岡直治郎は13歳の時に新潟から東京へ出て小僧奉公をしていましたが、その店が倒産した時に得た20円の手当を元手に行商を始めたところ、唐物のガーターやズボン釣りについての色々な批評を耳にしたので、1906年(明治39年)に浅草瓦町でガーターやズボン釣りの製造を始めたそうです。商売をするのにあたり、わかり易い商標にしたいということで、「谷渡り人物」印を選び事業を発展させ、1914年(大正3年)には日本橋馬喰町に店舗を構えるまでになったそうですが、第一次世界大戦が勃発すると需要がさらに大幅に伸びたので、事業拡大を目的として1920年(大正9年)に渋谷猿楽町に工場を建設し移転してきたと書かれています。事業が軌道に乗るまでには数年を要したようですが、移転から5年が経過した頃からは順調に発展し、海外輸出もおこない年産百数十万円の規模にまで発展し、「東洋一」とまで呼ばれるようになったようです。
そのような苦労をしていた時ではありながら、友人が経営する鉛筆製造工場も大正9年に不振に陥ったため、そちらの経営にも乗り出すことになったそうです。
松岡直治郎は「ゾル(SOL)製特許芯」を開発し、持ち前の努力と商才によってこちらの事業も立て直し、1932年(昭和7年)には埼玉県に大工場を建設するまでになったそうです。
これが「ヨット鉛筆株式会社」で、こちらも海外に進出し、従業員も500人を抱えるほどで、日本五大鉛筆工場のひとつと呼ばれたそうです。

昭和9年1月ヨット鉛筆の初荷風景『とうよこ沿線 №35』
昭和9年1月ヨット鉛筆の初荷風景『とうよこ沿線 №35』1986年 とうよこ沿線編集室

代官山の歴史シリーズ

1.江戸時代の代官山
2.内記坂の謎
3.明治時代の代官山の土地利用
4.西郷家と岩倉家
5.てんぐ坂の由来とたばこ王・岩谷松平について
6.西郷従道邸のこと
7.三田用水分水路の水車と明治・大正時代の代官山の産業
8.代官山に東横線が通るまで
9.昭和初期の代官山-お屋敷町の形成-
10.大正時代の都市計画と昭和初期の代官山の道路事情
11.同潤会代官山アパートメントの完成

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