同潤会代官山アパートメントの完成

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1923年(大正12年)9月1日午前11時58分に関東大震災は発生しました。この災害に際して国内はもとより全世界から寄せられた義捐金(ぎえんきん)の中から1,000万円が政府から支給され、復興住宅の建設・運営などの事業をおこなうために財団法人同潤会が設立されました。代官山に建設された同潤会アパートメントハウスは、同潤会が建設したアパートとしては2番目の規模のものであり、既存市街地に建設されたものではなく南面傾斜の敷地条件を生かした田園都市として設計された唯一の住宅団地でした。
同潤会代官山アパートメントの名称は、同潤会が設立された当初は東京横浜電鉄も開通しておらず、代官山駅も存在していなかったことから、同潤会渋谷アパートメントハウスとなっていました。


神田小川町・神保町『帝都復興史 附・横浜復興記念史』

1923年(大正12年)9月1日午前11時58分に関東大震災が発生しましたが、その被害については、『同潤会十年史』に「振天動地の中に更に祝融(中国神話の火の神)の暴威に見舞はれ、帝都並に横濱の如きは炎々天を焦がすこと三日余、前者は其の四割四分後者は実に八割を焦土と化し、一府六縣に亘って全焼或は全潰の滅失家屋は四十六万五千余戸、死者及び行衛不明者の数は十萬四千余名、重軽傷者亦五萬二千余名に上り、阿鼻叫喚、宛然(えんぜん=さながら)此の世ながらの焦熱地獄を現出したのである。」と書かれています。

この大災害発生の一報は全世界に伝えられ「而(しか)して更に吾人の感激に堪えなかったのは全世界の友邦から国境を超へて寄せられた厚き同情である。逸早く災害を伝えた無線電信を受けて南支邦海にあった米国亜細亜艦隊は直ちに多大の物資を送って救援され、又金華山沖にあった一米船が不取敢(とりあえず)救助船として芝浦に来航したのを手始めに、米国に於いては同国赤十字社によって救済金五百萬弗($)の募金が企てられ総裁クーリッヂ大統領自らラヂオ放送によって極東の友を救へと勧説に力(つと)めた結果は須叟(しばし)にして義捐金壹千萬弗($)を越した。其の他英、仏、独、伊、露を始め其他の各国並に国際的諸機関が深厚なる慰問と救援に多大の義捐金品を贈られ期せずして限りなき人類愛の表現を見たことは我等国民の等しく感謝に堪へず永遠に忘るゝことの出来ないところである。」と記載されているように総額で5,900万円、外国からは2,160万円の義捐金が集まりました。
(余談ですが、この18年後の1941年(昭和16年)に大日本帝国はハワイ州オアフ島の真珠湾を攻撃しました。)

内務省は、1924年(大正13年)5月23日に
1.住宅の経営
2.不具癈疾(ふぐはいしつ=身体障害者)収用所並に授産場の経営
3.其の他震災救護に必要なる施設を為すこと
を目的とする財団法人同潤会の設立を許可し、内務大臣水野錬太郎自らが総裁に就任しました。

当初の計画では、アパートメントハウスを1,000戸、木造住宅を7,000戸建設することになっていましたが、1925年(大正14年)3月2日までに仮住宅2,158戸を建設し、普通木造住宅については1924(大正13)年度内に3,420戸が竣工し、翌年度には2,500戸を建設する予定でしたが、住宅需給の状況が緩和すると同時に交通至便な市内の立地を求める傾向にあったために、計画を変更し普通木造住宅の建設を取りやめ、アパートメントハウスの建設を増加させることになりました。

アパートメントハウスの建設にあたっては、区画整理事業の進捗状況などの理由によって1924(大正13)年度内の建設用地確保が困難だったため、計画を変更し翌年度から事業に着手し、計画戸数も2,000戸に増加させて用地買収を開始しました。

1926(大正15)年度中には、青山、中ノ郷、柳島、渋谷(代官山)、清砂通の5住宅地合計720戸が完成しました。翌1927(昭和2)年度中も継続して建設がおこなわれ、渋谷(代官山)については1930(昭和5)年度に増築もされました。

代官山アパートメント建設工事『同潤会アパートの原景』

同潤会渋谷アパートメントハウスの敷地面積は5,966.653坪。建築費に付帯工事費、福祉施設費を加えた建設費総額では1,111,314円を要しました。
これを現在の価値に換算してみると、給与所得者の平均年収の比較で見た場合には、1925年(大正14年)の給与所得者年収が741円、2015年(平成27年)の給与所得者年収が420万円ですから約5,668倍として計算すると、63億円程度に相当するということなります。

『旧1万分の1地形図 三田』国土地理院 1909年(明治42年)

同潤会渋谷アパートメントハウスが建設された敷地は、明治末期の時点ではそのほとんどが雑木林だったようですが、三田用水の猿楽分水路が敷地外周部に沿って流れていたので、一部には畑があったようです。
この土地は、元々は下渋谷の旧家である伊藤一族のひとり、伊藤喜三郎の嫡男伊藤三蔵が所有していた土地でしたが、米国イリノイ州の若き女性宣教師ドーラ・E・スクーンメーカーが1874年(明治7年)に麻布に創立した「女子小学校」を起源とする「青山女学院」の新校舎と寄宿舎を建設するために、1917年(大正6年)に在日本メソヂストエピスコバル教会宣教師社団が購入し、関東大震災の前年の1922年(大正11年)からは一部が完成した校舎で授業をおこなっていましたが、レンガ造りだったために関東大震災によって全壊し、その後経済的な理由で青山学院と合同することになったために手放した土地です。

青山女学院の校舎配置図『集合住宅における経年的住環境運営に関する研究』

上の青山女学院の建物配置図を見ると、完成していたのは斜線が描かれている建物のみだったようですので、敷地のほとんどは手つかずの雑木林だったものと推察されます。また、三田用水猿楽分水路の流路に沿った敷地の外周部の道路は、この時期に整備されたものと思われます。

同潤会アパート全景『建築写真類聚』

これは、同潤会アパートメントを南東側から東京横浜電鉄の線路越しに撮影した写真です。昭和初期には、線路沿いの現在の恵比寿西2丁目付近には雑木林が残っており、同潤会アパートと線路との間にはまだ建物が一軒も建てられていなかったことがわかります。この写真の撮影場所は、伊藤七軒と云われた伊藤一族のひとり、伊藤茂三の所有地内に建てられた八千代電機製作所ではないかと思われます。

建設当初の敷地内外の様子『同潤会のアパートメントとその時代』

これは、建設当初の同潤会アパートの配棟図です。代官山アパートメントはバリエーション豊かな住戸プランで建設されており、世帯向けの住戸が230戸、独身者向け住戸が94戸、店舗向けが9戸、その他4戸となっていたようです。29号棟には食堂があり、そこから渡り廊下で繋がっている30~33号棟が独身者向け住戸だったようです。
また、水道は地下水の水質が良かったため、敷地内のポンプ小屋で汲み上げて全戸に給水していたようです。設備も当時としては先進的で、全戸水洗トイレでありダストシュートも完備していました。

『田園都市』 内務省地方局

代官山アパートメントは、その他の既存市街地に建設された同潤会アパートとは異なり、ほぼ手つかずの斜面地の地形を利用して設計された住宅団地でしたので、当時内務省でも注目していた田園都市理論の影響を受け、湾曲した街路、広場、アイストップとしての階段状の緑地、ゲートやアーチなどといったランドスケープデザインの要素が取り入れられました。

同潤会アパート いてう通り終端の階段

東京横浜電鉄の線路脇の道路から同潤会アパートメントの広場に上る階段は、景観形成上のアイストップとして印象的な景観構成要素のひとつになっていました。

同潤会アパート独身者棟『建築写真類聚』

独身者棟は3階建で4棟建てられました。各棟は渡り廊下で繋がれ、食堂のある29号棟まで雨に濡れることなく行くことが出来ました。また独身者用の住戸は全て男性用で、家族であっても女性は入ることが出来なかったそうです。

同潤会アパート独身者棟ゲート『建築写真類聚』

独身者棟である30号棟と31号棟を繋ぐ渡り廊下の下の、女人禁制のエリアへのゲートではないかと思われます。

同潤会アパート食堂『建築写真類聚』

食堂は、基本的には独身者用に設置されたものだったようですが、一般の住人も利用でき、出前もおこなっていたようです。また、2階には当初娯楽室があったようですが、夫婦共働きの世帯が多かったことから、アパート完成時に設立された住民自治組織である「親隣会」の婦人部有志によって幼稚園が開設され、長く運営されたようです。

29号棟前のいてう通り『建築写真類聚』

食堂のある29号棟の向かいの通りです。広場から撮影したもので、正面には1階に店舗用の区画がある23号棟が写っています。

9・10号棟『建築写真類聚』

これは、周囲の道路配置、住棟の外観から判断すると、児童遊園裏手の9・10号棟ではないかと考えられます。

世帯向け2階建住棟『建築写真類聚』

これは、最も数多く建設された世帯向け2階建住棟で、代官山アパートメントでは21棟建てられましたが、平面プランが微妙に異なるバリエーションが存在していました。以下は、玄関と室内の様子です。

2階建連棟住宅の玄関『建築写真類聚』

アパートメント内部(建設当時)『同潤会アパートの原景』

同潤会渋谷アパートメントハウスは、1927年(昭和2年)4月5日から1930年(昭和5年)5月21日までに4回に分けて貸付の開始がおこなわれ、入居者募集にあたっては、337戸に対して3,125名の応募がありました。同潤会がアパート経営をおこなっていた期間は賃貸住宅でしたので、初年度から住人の入退去は発生しており、『同潤会十年史』の記録を見ると、1930年(昭和5年)以降は毎年住人のほぼ半数が入れ替わるといった状況のようでした。

同潤会では『アパート居住者生計調査報告書』(昭和11年)という興味深い調査資料を作成しています。その総説には「本会はアパートメントの居住者が此の新型式の住宅に居住することによって生活特に其の生計上に如何なる影響を受くるかを知らんがために、昭和九年六月以降同十一月に至る満六ケ月間に亘って本会経営のアパート四住宅の居住者に付き家計簿式の生計調査を実施したのである。」と記載されています。

調査は、給料生活者の生計調査対象として青山アパートの17世帯、渋谷アパートの26世帯について調査しています。また、労働者の生計調査対象として清砂通アパートの30世帯、柳島アパートの20世帯について調査しています。
給料生活者の43世帯中、官公吏は20世帯、銀行会社員は16世帯、教職員其他が7世帯でした。労働者の50世帯中、工場労働者は34世帯、交通労働者は14世帯、其の他は2世帯です。
居住者の所得については、青山アパートメントの平均月収は142.16円、渋谷アパートメントの平均月収は136.39円、清砂通アパートメントの平均月収は92.91円、柳島アパートメントの平均月収は101.63円だったようです。
それぞれのアパートメントの高収入世帯を見てみると、青山アパートメント居住者の最高の平均月収は237.23円、渋谷アパートメント居住者の最高の平均月収は234.52円、清砂通アパートメント居住者の最高の平均月収は156.96円、柳島アパートメント居住者の最高の平均月収は155.37円ということになっています。

渋谷アパートメントの居住者について職種別に見てみると、官公吏世帯の平均月収は112.14円、銀行会社員世帯の平均月収は148.62円、教職員其他世帯の平均月収は157.95円となっています。

『日本長期統計総覧』によれば1935年(昭和10年)の給与所得者の平均年収は712円だったようでしたので、月収に換算すると59.33円になります。一方、大卒の初任給は73円、国家公務員の初任給は75円という時代だったようですので、これらの資料から考えると、渋谷アパートメントの居住者は、社会全体から見ればかなりの高額所得者層だったと考えられます。

豊多摩郡渋谷町は1928年(昭和3年)に町名地番の整理改正を実施し、渋谷区成立後の1933年(昭和8年)に、各町に町内会が設けられましたが、同潤会アパートメントは八幡通3丁目と代官山町にまたがる敷地に建設されており、その区分に従えば町内会の加入範囲としては親交会(八幡通3丁目)と代官山町会(代官山町)に分かれることになりますが、同潤会アパートメントの完成直後から親隣会という住人自治組織が成立していたために、独立した町内会を形成することになったと考えられます。

そしてこの団地は、敷地内で地下水を汲み上げる団地独自の水道設備を有しており、団地内には食堂や銭湯、理髪店、洋服店など日常生活に必要な店舗が有っただけでなく、親隣会が運営する幼稚園も有り、また、食料品などの調達については、当時の代官山がお屋敷町であったこともあり、商店が御用聞きに来ていた地域であったことなどからコミュニティとしての自立性が高く、団地外の近隣住民との共存意識は低かった可能性が考えられます。
このことは、太平洋戦争敗戦後に、その時点での居住者に各住戸が払い下げられた後にもその影響を残したと考えられます。

同潤会アパート銭湯『建築写真類聚』

これは、同潤会代官山アパートメントハウスを撮影した写真では、食堂があった29号棟と並んで多くの人が被写体に選んだ銭湯のアパート完成当時の写真です。同潤会代官山アパートにおける重要な景観構成要素のひとつであったと考えられます。

関東大震災後の東京西部の郊外に向けて急速に市街地が拡大していった時代にあって、当時の建築界の潮流であった田園都市理論やモダニズムの影響を受ける形で建設された同潤会代官山アパートメントハウスは、その後、代官山地域における象徴的な場所のひとつになりました。

代官山の歴史シリーズ

1.江戸時代の代官山
2.内記坂の謎
3.明治時代の代官山の土地利用
4.西郷家と岩倉家
5.てんぐ坂の由来とたばこ王・岩谷松平について
6.西郷従道邸のこと
7.三田用水分水路の水車と明治・大正時代の代官山の産業
8.代官山に東横線が通るまで
9.昭和初期の代官山-お屋敷町の形成-
10.大正時代の都市計画と昭和初期の代官山の道路事情
11.同潤会代官山アパートメントの完成

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