西郷従道邸のこと

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代官山の魅力を語る上で西郷山公園は外すことの出来ない存在です。その西郷山公園が、明治維新の三傑のひとり、西郷隆盛の弟、西郷従道の屋敷跡に整備されたことはよく知られています。

西郷従道という人


『ボンジュール ジャポン フランス青年が活写した1882年』朝日新聞社 1998年

西郷従道は1843年(天保14年)6月1日に西郷家の三男として生まれました。兄、西郷隆盛とは15歳離れています。
西郷隆盛らと共に尊王攘夷運動に参加し、戊辰戦争にも参加しました。明治維新直後の明治2年(1869年)、26歳の時に5歳年上の元長州藩士、山縣有朋とともに、欧州の軍制の視察を目的としてフランス・イギリス・ベルギー・ドイツ・オーストリア・ロシア・オランダを巡遊し、アメリカ経由で1870年(明治3年)8月2日に横浜港に帰ってきました。

1871年(明治4年)には、28歳で陸軍少将になります。
この年に、宮古島から首里に年貢を輸送していた琉球御用船が台風で遭難し、宮古島島民66人が台湾に漂着しました。台湾の先住民パイワン族に救助を求めたところ拉致されたので、逃亡を図ると54人が斬首されました。また、1873年(明治6年)には備中の柏島村の船が台湾に漂着したところ略奪を受ける事件が起こりました。
琉球国は、1609年(慶長14年)に薩摩藩が侵攻して以来薩摩藩の付庸国になっていましたが、満州族の王朝である清に対しても朝貢国の立場にあり、薩摩藩と清に両属する体制をとっていましたので、明治政府は清に特使を派遣しこの件に関して問いただしたところ「清政府の責任範囲ではない事件」と回答したことから、犯罪捜査などを名目として台湾に出兵することにしました。
そこで1874年(明治7年)、陸軍中将となった西郷従道が31歳の時に、明治政府は西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命し軍事行動の準備に入りましたが、英米からの反対意見があったこと、征韓論(海外派兵)に反対していた長州閥も反対の態度を示したことから、明治政府が一旦は派兵の中止を決定したにも関わらず、西郷従道は独断で出兵を強行し事件発生地域を制圧することに成功しました。
これにより、明治政府と清との間に日清両国互換条款が締結され、琉球の日本帰属が国際的に承認されることになりました。以後、日本は欧米諸国と並び立つために富国強兵に邁進し、植民地帝国主義の道を歩むことになりました。

1877年(明治10年)に征韓論を唱えていた兄、西郷隆盛が西南戦争を起こしましたが、これには加担せず東京に留まりました。
1878年(明治11年)には35歳で陸軍卿に任命され、1884年(明治17年)には伯爵を授けられました。

西郷従道は早くから欧州諸国と同様に我が国でも鉄道を敷くのは急務であると強く主張していましたが、明治政府が西南戦争の出費などで財政が窮乏していたために、華族と士族が家財をもって会社を建て鉄道を敷設することが提案され、1881年(明治14年)には日本鉄道会社が設立されましたが、西郷従道も出資し、200株を保有する株主になりました。1885年(明治18年)には品川-赤羽間が開通し、渋谷停車場も設けられました。(西郷従道邸から渋谷停車場(現在の渋谷駅新南口付近)に向かう道(現在の南平台町・桜丘町と鉢山町・鶯谷町の境界)は「西郷さんの馬車道通り」と呼ばれました)

1885年(明治18年)に内閣制度が発足すると、42歳で初代の海軍大臣に任命され、日清戦争が勃発した1894年(明治27年)には海軍大将に昇格するとともに公爵に昇格しました。
この間の1892年(明治25年)には、軍備強化(対外強硬路線)、藩閥政治の擁護を目的とする国粋主義団体「国民協会」を設立し、自ら会頭に就任しました。
そして1898年(明治31年)には55歳で海軍では初めての元帥になり、1902年(明治35年)に胃癌のため59歳で生涯を閉じました。

西郷従道の家族のことについては、「西郷家と岩倉家」に記載してあります。
http://daikanyama.life/?p=2133

西郷従道の住まい


明治維新直後の1869年(明治2年)に、皇政復古の功臣には東京の住居として旧大名屋敷などが払い下げられました。
最初、西郷従道は麹町區永田町一丁目八番地の約千八百坪を崖地等を多く含んでいるとの理由で、他より安い総額三百円で払い下げを受けました。後にこの場所は国会議事堂の建設用地になったため、明治20年頃に、そこから少し南方の三年町にあった旧有栖川宮邸が移転先になりましたが、そこに居住していたドイツ人技師が帰国するまでの3年間ほどはいろいろな官舎を転々としていたそうです。これが、西郷従道の本邸です。(赤下線の位置)

『五千分一東京図測量原図 東京府武蔵国麹町区皇城及永田町近傍』参謀本部陸軍部測量局 1883年(明治16)

兄の西郷隆盛も日本橋區小網町の約千坪が割り当てられましたが、そんなに広い土地は必要が無いといって伊地知正治(薩摩藩きっての軍略家)と半分に分けました。この頃隆盛は、体を壊しており鹿児島の日当山温泉で療養するなどしていましたが、新政府内には隆盛の上京を求める声が多く、西郷従道は1870年(明治3年)に、兄隆盛を迎え入れる目的で青山に土地を購入しました。西郷従宏(従道の孫)著『元帥西郷従道伝』によれば、「明治三年暮れに、今の港区南青山七丁目で青山学院から宮益坂上にかけて一万七千余坪の山林茶園の売物があると聞き、兄の上京を準備する気持ちもあって、これを購入した。」と記されています。(青山学院から宮益坂上にかけての一帯は、港区南青山七丁目ではなく渋谷区渋谷二丁目もしくは四丁目であるはずなので、実際にどの辺りだったのかは不明ですが、常磐松があった旧薩摩藩島津家下屋敷から遠くない場所であったものと推測されます)
1871年(明治4年)に西郷隆盛が上京した際には時折ここに滞在し静養したようです。

この青山の土地を売却して現在の目黒区青葉台二丁目に別荘用の土地を購入したのは1874年(明治7年)頃とされていますが、正確な年はわからないようです。
1880年(明治13年)には荏原郡品川町御殿山にも二万余坪の土地を七千余円で購入しましたが、こちらは1892年(明治25年)に国粋主義団体「国民協会」を設立した際に事業資金に充てるため売却したようです。
現在の感覚では、千代田区霞が関三丁目附近に本邸を構えている家が目黒区青葉台二丁目に別荘を取得するというのは不自然に思えますが、当時の交通事情では「現在伊豆付近の別荘に行くのと時間感覚で似たようなものであったらしい。」と『元帥西郷従道伝』には記載されています。
1881年(明治14年)からは、従兄の大山巌(初代陸軍大臣)とともに栃木県那須塩原市西那須野の加治屋開墾場で農場開拓をおこないました。
また、明治17・8年頃には、大山巌の薦めによって静岡県駿東郡静浦村に別荘を購入し、海辺にある瓜島には茶室を建てました。瓜島は西郷島と呼ばれたそうです。

西郷従道が没する2年前の1900年(明治33年)に、当時麻布にあった有栖川宮邸は大修理が必要となりましたが、修理ではなく移転することも検討されたところ、西郷家の本邸は元々祖父の有栖川宮が居住していた場所なので、狭くなってもそちらに移ることを希望するという有栖川宮の内意があったことから、従道は6,400坪の敷地を二十万円で売却し、翌年、従道没年の前年に目黒の屋敷を本邸とすることに決めました。

西郷従道邸


1874年(明治7年)頃、西郷従道は現在の目黒区青葉台二丁目に、兄西郷隆盛と共に住むことを目的として約5万坪の土地を購入しました。この土地は豊後岡藩藩主中川家の下屋敷跡で明治維新に際して払い下げを受けていた高畠氏が売りに出したもので、大隈重信、山県有朋、井上薫、大木喬任など明治新政府の閣僚も興味を示していたそうですが、交渉に当たり値切られていたので売却せずにいたところ、西郷従道が売値の1,200円にさらに100円を上乗せし、1,300円で購入すると申し出たために売買が成立しました。
西郷従宏著の『元帥西郷従道伝』には、「余り皆さんが値切るから巨木は建築材としてまた大石は庭園師に売り払い立退くことさえ考えましたが、このような情けのこもったお言葉に接し私のみならずこの邸園も将来さぞ幸福でありましょう」と申して一本一草にも手をふれず養豚中の豚まで全部くれました。この話を聞いた近所の農家の人々はその後庭の手入れをてつだってくれたりして親しくなるうちに、お祖父様に自分らの土地を時価より高く買って欲しいと申し出たので、土地財産を増やそうなんかの野心は全く無く、寧ろ困った農民を救済する積りで、逐次お給料から周辺の農地を買いました。終いには、庭園を含めて十四万坪にまでなり、目黒・渋谷の一帯を西郷山とまでいわれるようになったのです。」と書かれています。
また、「お祖父様は台湾征討の恩賞として、当時としては破格の大金を頂戴なさったので、南洲様(西郷隆盛)を東京に迎え一緒に住む積りもあって、そのお金で約五万坪の目黒の邸を買われました。」と書かれており、一般的には1874年(明治7年)の台湾征討の恩賞金(御下賜金)で購入したと考えられていますが、「明治九年二月二十二日に「台湾征討を嘉す」の勅語と勲章を頂いているので、多分この時の御下賜金で購入したのであろう。しかし従徳の文章では、明治七年長男従理が誕生し、清子(従道の妻)は産後里方で静養したので、出征中の従道の給料は陸軍省から野津鎮雄(道貫元帥の兄)が受領し保管したので大金となり、目黒邸購入に充当したと記されている。」とも書かれており、「従道辞令に見るように兼職が非常に多いが、当時は兼職として別々の給料を二重、三重に貰うことが出来た。例えば中将の給料と兼職参議の給料と両方で、千円を超す月給であった。」と書かれていますので、当時の西郷従道にとっては、特別な収入が無くても充分に購入可能な売値だったと考えられます。
ちなみに、明治13年の大卒初任給は8円だったという記録があり、2019年の大卒初任給の平均は20万円程度らしいので、この比率で計算してみると、当時の西郷従道の月収は2,500万円以上に相当するということになります。しかし金の価格で換算してみると、田中貴金属工業の資料によれば、明治初期の金1gの価格は67銭になっています。それが2019年の平均価格は4,918円になっていますから、当時の1円の価値は現在の7,340円程度ということになります。これを当てはめると当時の千円は凡そ現在の734万円に相当することになります。換算値に相当大きな開きがありますが、いずれにしても月給1ヶ月分と少しの金額で広大な土地を購入出来たということのようです。(西郷従道が多くの不動産を購入した理由のひとつとして、「妻清子は、従道が多額の現金を持つのを好まず、土地に替えることが安心であった。」ということがあったようです)

上記に引用した通り『元帥西郷従道伝』には、「寧ろ困った農民を救済する積りで、逐次お給料から周辺の農地を買いました。終いには、庭園を含めて十四万坪にまでなり、…」と記載されていますが、これは明治新政府が1872年(明治5年)に田畑永代売買禁止令を解除して土地の売買の合法化をおこない、続いて1873年(明治6年)7月28日に地租改正法を制定し、翌年から地租改正に着手したことによって、日本において初めて土地に対する私的所有権が確立したことになり、農民が所有する農地を売買することが出来るようになったことに依ります。
江戸時代までの農民は生産が義務付けられた農作物の一定割合を年貢として領主に納めればよかったわけですが、この場合、領主の収入となる年貢の量は作物の収穫量によって変動していました。これを明治新政府は地租改正によって、地価にもとづく安定的な税収を確保することが出来るようにしたわけですが、政府で一方的に地価を設定し、税率を3%としたことから大多数の農民の負担を高めることになりました。このようなことから、明治時代初期には農地の売却を希望する農民が多数出現し、彼らの農地を買い上げた西郷家や朝倉家は代官山周辺に多くの土地を所有することになりました。

西郷従道が購入した、豊後国岡藩藩主中川修理大夫の屋敷は江戸時代から名所として知られていたようで、江戸時代中期(1732年)には菊岡沾凉が著した地誌『江戸砂子』が人気を博していましたけれども、その記載内容を訂正する形の書籍もいろいろと出版された中に、加賀美遠懐が著した『江戸砂子補正(加賀美氏江戸砂子書入)』があります。その中に中川修理大夫抱屋敷の「臥虹楼」について記された文章があり、「臥虹楼、上目黒中川修理大夫久貞下屋敷の庭池中にあり、昔よりありしを、修理大夫此やしきを買求られしよし、池に蓴(じゅんさい/ぬなわ)菱コウホネ(河骨)あり、池の上に長廊下あり、幅九尺長さ五十三間、内取付七間先年焼失、新に建つづきたり、臥虹楼は二階の上、二間に五間二十畳敷、中柱なし、合掌造り、…<後略> ※蓴、菱、河骨はいづれも水性植物」というように江戸の名所として紹介されています。
この中川修理大夫の抱屋敷は、江戸時代最大の大火である明暦の大火によって多くの武家屋敷や大名屋敷が移転することになり、豊後国岡藩の第3代藩主中川久清も、この明暦の大火の翌年の1658年(明暦4年)に石川太兵衛より譲渡された土地に周辺の土地を買い足して約2万5千坪の広さの抱地を取得し、1665年(寛文5年)には、ここに屋敷を普請したものであると云われています。

『旧1万分の1地形図』国土地理院 1909(明42)年

緑線の範囲が凡そ中川修理大夫抱屋敷であったと考えられます。赤線の範囲は1909年(明治42年)頃のひと続きの西郷家所有地の範囲と考えられ、当初西郷従道が購入した土地の範囲に近いのではないかと考えられます。明治末期の西郷家の所有地は、この赤線の範囲だけでなく他にもあったようです。

西郷従道が購入した屋敷には、兄西郷隆盛が西南戦争で没した後の1880年(明治13年)に、フランス人建築家ジュール・レスカス(Jules Lescasse)と棟梁鈴木孝太郎によって、日本で最初と云われている重心を低くした木造二階建ての耐震仕様の洋館が建設されました。(『元帥西郷従道伝』には「目黒の邸には、明治十六年にフランスの建築家J・M・レスカスが設計した西洋館が建てられた。」と記されていますが、1880年(明治13年)11月9日の『読売新聞』の記事には「西郷参議にハ此ほど渋谷日向村の中川修理大夫の旧邸を買入れ別荘を新築されしが木製の西洋造りにて建築ハ或る外国人が受負ひ二三日前に棟上も済ましたが余ほど立派な御普請ゆゑ落成の上ハ聖上にも行幸あらせられるとかいふ」と記載されています)

『ボンジュール ジャポン フランス青年が活写した1882年』朝日新聞社 1998年

この建物は、建築学的な価値が高いと評価され1962年(昭和37年)に愛知県犬山市の明治村に移築されて国の重要文化財に指定されています。

『郷土目黒 19』目黒区郷土研究会

1889年(明治22年)には、この年の5月24日におこなわれた明治天皇の行幸に備えて大広間のある書院造りの和館も建設されました。

『日本庭園史図鑑』有光社 1937年

これは『日本庭園史図鑑』(1937年有光社)に掲載された「旧西郷従道邸庭園実測平面図」です。
『元帥西郷従道伝』には「目黒庭園は三田上水から水を引いて二段の大滝あり、大・中・小三つの池あり、出島や中島あり、広大な芝生あり、これを屏風のように樹林が斜面に林立し、四季の変化もすばらしい雄大な眺めで、風趣に富んだものであった。その上、隆盛が島津斉彬に江戸で最初に仕えた時の役がお庭役だったからであろう、隆盛に仕えた下僕永田熊吉は、京都で庭師修業を受けていたので目黒庭園を修作し、鶴の噴水、石灯籠・石橋等を加え、日本庭園としての美を益々備えるようになった。」と記載されています。

国土地理院 航空写真 1936年(昭和11年)

この写真は、西郷従道の嫡男従徳が渋谷に移転する前の1936年(昭和11年)に撮影された航空写真です。『元帥西郷従道伝』に「目黒から渋谷にかけて十四万坪もあった西郷山は、明治から大正にかけて親戚の財政援助などに必要で、逐次売却していた。しかし、庭は座敷から見渡せるところだけで六千五百坪あり、それを含めて附随する山林敷地五万坪、宅地(貸地)二万坪が昭和十五年頃まで残っていた。」と記載されているように、現在の旧山手通り沿いの敷地は貸地となり宅地化されています。また、古川邸となっている敷地は、西郷従道の二女不二子が1908年(明治41年)に古河虎之助に嫁いだ時の持参金扱いのものではないかと推察されますが、西郷従徳の四男従靖が古河家に養子入りした1921年(大正10年)よりも後の1924年(大正13年)に古河家に所有権が移転したようです。

『郷土目黒 14』目黒区郷土研究会

1902年(明治35年)に出版された『西郷従道』(安田直著 国光書房)には、目黒の邸宅について「其七分通りまでは麦、桑、野菜畑にして、建物とては西洋館一棟、日本造屋一棟に過ぎず、<中略>邸内には、七面鳥、鶏等を飼育し、牛を畜(か)いて其乳を搾り、純然たる農家の生活にして、華族の別邸とはドーしても思はれず、」と記載されており、この屋敷の様相は極めて牧歌的、田園的なものだったと考えられます。これは従道が西那須野で農場開拓をおこなうなど、欧米の農園経営などに影響を受けた従道の自然主義的な好みが反映しているのではないかと云われています。

『渋谷の記憶 Ⅱ 写真でみる今と昔』渋谷区教育委員会 編

『元帥西郷従道伝』には、1940年(昭和15年)に従徳の嫡男で、当時陸軍中佐でビルマ方面軍参謀であった西郷従吾の「こんな大邸宅を所有するのは時勢(1940年:建国2600周年、日独伊三国軍事同盟成立)に合わない」との強い要望で、約三千坪の敷地と二万坪の宅地を残して箱根土地分譲会社(西武の前身)に西郷家の土地を売却したと記載されています。それまでは「山林敷地五万坪、宅地(貸地)二万坪が昭和十五年頃まで残っていた。」ということですから、この時に売却したのは概ね47,000坪程度だったということになります。
ところが、東海大学工学部建築学科の学生が2006年度の卒業論文『代官山地域における歴史的文脈と大土地所有の変遷に関する調査』のために東京法務局渋谷出張所の土地台帳を調査したところ、西郷従徳邸の敷地の多くの部分は1940年(昭和15年)に東電KK(東京電力)に譲渡されており、さらにその中の多くが1942年(昭和17年)に東京急行に譲渡されていたことがわかっています。また、西洋館や和館などを含む屋敷の主要な部分は、西郷従徳の転居に合わせて1941年(昭和16年)に東京市に譲渡されたことがわかっています。従って、『元帥西郷従道伝』を著した西郷従宏の記憶は勘違いだった可能性があると思われます。
一方、それ以前の1928年(昭和3年)には、箱根土地株式会社が南平台町、丸山町、神泉の西郷従道侯爵邸跡地28万5千坪を西郷山として開発分譲したと云われています。『元帥西郷従道伝』では、西郷山は「目黒から渋谷にかけて十四万坪もあった」と書かれていますから、箱根土地株式会社が関東大震災直後に開発分譲した西郷山には西郷家が売却した土地以外も含まれていたのであろうと考えられます。
ちなみに、1940年(昭和15年)に売却した土地の代金は、当時の国策に沿うように満州鉄道の株券の購入に充てたために太平洋戦争の敗戦とともに消滅したと『元帥西郷従道伝』には書かれています。
そして西郷従道の嫡男従徳は、その翌年の1941年(昭和16年)に、父の従兄で西郷家とは極めて親しかった大山家の屋敷(明治時代の住所:東京府南豊島郡千駄ヶ谷村穏田)の近くである渋谷区穏田一丁目四(現在の神宮前五丁目)に転居しました。

その後、西郷従道邸跡地は1943年(昭和18年)に日本国有鉄道に売却され、太平洋戦争敗戦後は国鉄の職員住宅やプロ野球チーム国鉄スワローズの選手合宿所などとして使われていましたが、後にその多くの部分を目黒区が取得し、1981年(昭和56年)に西郷山公園を、2001年(平成13年)に菅刈公園を整備しました。

目黒もらい子殺し


1933年(昭和8年)に川俣初太郎がもらい子殺しの容疑で逮捕されます。
当時は、1929年の世界大恐慌による不況から回復することが出来ずにいたことと合わせて、冷害、凶作、昭和三陸津波などの自然災害にも見舞われており、農村部では娘を売る身売りや欠食児童が急増していた時代でした。また、太平洋戦争敗戦前は母体保護法(優生保護法)が制定されていなかったために妊娠中絶は認められず、厳しく堕胎罪が適用されていたために、養育できない子供を産んでしまった親が、僅かな養育費を添えて生まれた子を里子に出すことがおこなわれていました。そのような子どもを養育費とともに貰い受け、子どもは殺害してしまう犯罪がもらい子殺しです。
川俣初太郎は、「子供やりたし」の広告をみてはその広告の主である産婆の下に行き、何十円かの養育費を受け取ったうえでもらい子を殺害していましたが、逮捕後「死体は西郷侯爵邸の裏庭の熊笹の中に埋めた」と自供したので調べたところ全部で25人の死体が西郷従徳邸の敷地内で発見されました。
発掘調査の時には見物人が300人も集まり、その後も偽の賽銭箱を置いたり、花を売ったり、おでん屋や甘酒屋の屋台を出す者が現れたそうです。

当時の代官山が、どれほど人里離れた風情であったかを推察させる話であると同時に、後に西郷家が渋谷に転居することを決めた一因ではなかったかとも想像させる話です。

代官山の歴史シリーズ
1.江戸時代の代官山
2.内記坂の謎
3.明治時代の代官山の土地利用
4.西郷家と岩倉家
5.てんぐ坂の由来とたばこ王・岩谷松平について
6.西郷従道邸のこと
7.三田用水分水路の水車と明治・大正時代の代官山の産業
8.代官山に東横線が通るまで

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