明治時代の代官山の土地利用

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明治から大正時代にかけての代官山地域は、人家もまばらな寂しい地域だったようです。起伏が多い土地であったために耕作地の割合は少なく、斜面地の大部分は雑木林か茶畑だったようです。


これは、1885年(明治18年)発行の『陸軍参謀本部陸地測量部2万分1迅速測図原図』です。
1885年(明治18年)は、内閣が設立され、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任した年です。大日本帝国憲法はまだ公布されていません。
現在代官山といわれている地域の土地が、この時代にはどのように利用されていたかを知ることが出来ます。

2万分1迅速測図原図 『2万分1迅速測図原図』陸軍参謀本部陸地測量部 1885年(明治18年)

現在の道路の位置を重ねてみたものです。
鉢山町の東側はほとんどが雑木林でした。鶯谷町もかなりの部分が林と茶畑でした。これは、江戸時代には日向延岡藩主内藤能登守の抱屋敷があった場所です。
猿楽町も並木橋に近いエリアはほとんどが茶畑で、現在、猿楽小学校や猿楽古代住居跡公園がある辺りは雑木林でした。
代官山町は、八幡通り沿いの平らな部分は畑地になっていますが、キャッスルストリートに向けて下る斜面は殆どが雑木林だったようです。

猿楽岩谷邸の茶畑猿楽岩谷邸の茶畑『渋谷の記憶』渋谷区教育委員会

この地域に茶畑が多いのは、もともとこの辺りの土壌が耕作に適していなかったということもあるようですが、紀州徳川家の下屋敷があった、現在の町名が松濤となっている地域一帯を旧佐賀藩の鍋島家が取得し、狭山茶を移植して「松濤園」を開設し、仕事を失った元武士の働き口としましたが、近隣の地域でもそれに倣ったところが多かったためなのではないかと考えられます。
渋谷一帯で栽培されたお茶は「渋谷茶」と呼ばれ人気があったようですが、静岡まで鉄道が開通し、同じように元士族が開拓した静岡茶が市場を席巻するようになると、渋谷一帯でのお茶の栽培は衰退していったようです。
※写真の岩谷邸については「てんぐ坂の由来とたばこ王・岩谷松平について」を参照してください。

旧一万分の一地形図『旧一万分の一地形図』三田+世田谷 1909年(明42年) 国土地理院

これは1909年(明42年)発行の『旧一万分の一地形図』の三田と世田谷と合体したものの一部です。代官山一帯には建物を示す四角のしるしが極めて少なく、集落と呼べる程のものはほとんど無かったことがわかります。

『郷土渋谷の百年百話』加藤一郎編著 渋谷郷土研究会(1967年)には、「下渋谷今昔記」という章の中に各旧町名別の項があります。「長谷戸」の項には、「大正開発期には山の高い処に、”松田養鶏場”、少し下がって”佐々木養豚場”と道をはさんで”樋田乳牛場”その道は庚申橋から、かまくら道に通じる昔からの村の要道にあたっていた。」と書かれています。「かまくら道に通じる昔からの村の要道」というのは、現在の内記坂を示すものと考えられます。 つまり、現在の恵比寿西1丁目、2丁目に該当する地域の内記坂の両側では広く牧畜が営まれていたことがわかります。
※内記坂については「内記坂の謎」を参照してください。

長谷戸の水車
長谷戸の水車『渋谷の記憶』渋谷区教育委員会

明治時代末期の鶯谷町付近の写真のようですが、当時の代官山一帯の風景はこのようなものだったと推察されます。

代官山の歴史シリーズ

1.江戸時代の代官山
2.内記坂の謎
3.明治時代の代官山の土地利用
4.西郷家と岩倉家
5.てんぐ坂の由来とたばこ王・岩谷松平について
6.西郷従道邸のこと
7.三田用水分水路の水車と明治・大正時代の代官山の産業
8.代官山に東横線が通るまで
9.昭和初期の代官山-お屋敷町の形成-
10.大正時代の都市計画と昭和初期の代官山の道路事情
11.同潤会代官山アパートメントの完成
12.敗戦後の代官山
13.代官山集合住居計画にはじまる1970年代の代官山
14.雑誌記事で辿る1980・90年代の代官山
15.同潤会代官山アパートメントの記憶と代官山地区第一種市街地再開発事業
16.21世紀を迎えた代官山は…

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