大正時代の都市計画と昭和初期の代官山の道路事情

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豊多摩郡渋谷町は1922年(大正11年)に東京市都市計画区域に指定されました。1932年(昭和7年)には千駄ヶ谷町、代々幡町と合併し渋谷区となり、東京市に編入され東京35区の中の一区となりました。このような時代に、現在の代官山地域の骨格となる道路のほとんどが整備されました。


東京都市計画地図 1921年(大正10年)

これは1921年(大正10年)に作成された『東京都市計画地図』です。『本邦都市計画事業と其財政』(昭和4年)には「大正十年十二月十七日の内務省告示二四五号を以て右設計の中東京府知事執行の郊外路線(環状及放射線)三十三線を指定し、翌十一年三月二十八日内閣公告を以て右事業の年度割を大正十~十八年度の九ヶ年とする旨公示され次いで大正十一年七月十二日内閣告示を以て残部の市内路線五十七線(府と分担の分四線)は大正十一~十七年の七ヶ年間に東京市長が執行する旨公示された。」と書かれています。

現在の山手通り(環状6号線)は、この時点で都市計画決定されており、地図上では「Ⅰ.3.9.」という番号がふられています。これは、「一等大路第三類第九」を意味し、幅員12間(約22m)で整備することになっています。

同時に現在の駒沢通り(Ⅱ.1.10.)と八幡通り(Ⅱ.2.21.)も都市計画決定しています。二等大路の第一類は幅員10間(約18m)以上、第二類は幅員8間(約14.5m)以上で整備することになっていました。

しかし1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生しました。

丸ノ内有楽町『帝都復興史 附・横浜復興記念史』

上野付近の焼け跡『帝都復興史 附・横浜復興記念史』

関東大震災は、関東地方南部の相模湾付近(諸説ある)を震源地として午前11時58分に発生した地震で、東京市では震度6を記録したとされていますが、発生時刻がちょうど昼食時だったことから火を使っている家が多かったために各所で火災が発生し被害が大きくなったと云われています。東京市の4割以上の面積が焼失したと云われていますが、その範囲は下の地図で示されているように、東京市の東側半分のほぼ全域が焼失したようです。

『東京大震災火災地図』(大正12年)

この時首相に任命されていた山本権兵衛は組閣の途中でしたが、この大災害の発生によって翌2日には山本内閣が発足し、内務大臣には同年4月まで東京市長だった後藤新平が就任しました。その後、9月27日に関東大震災からの帝都復興事業を目的として「帝都復興院」が設置され、総裁に後藤新平が就任し、「帝都復興計画」が立案されました。

後藤新平は東京復興の基本方針として
1.遷都すべからず
2.復興費は30億円を要すべし
3.欧米最新の都市計画を採用して、我国に相応しい新都を造営せざるべからず(=すべし)
4.新都市計画実施の為めには、地主に対し断固たる態度を取らざるべからず(=るべし)
を掲げました。

このプランは、焼失した被災地域を政府で買上げ、区画整理によって新たな街区をつくり、それを公平に売却または貸し付けるという案でしたが、膨大な費用を要するため、閣議ではあっさり斥けられました。
しかしその後、内務省復興局と東京市は協力し、被災地域を66の区に分割し、「減歩」と「換地」という現在の土地区画整理事業の手法によって区画整理がおこなわれ、ほぼ現在のような街路配置がこの時期に出来上がったようです。
この区画整理に対する理解を得るために、下図のような図版を掲載した冊子を作成し住人に説明したようです。

『帝都復興の基礎 区画整理早わかり』

具体的には、下図のような形で区画整理はおこなわれました。
この場所は、現在の隅田公園の東側に隣接する地区です。隅田公園は、震災後代官山へ移住した水戸徳川家の徳川圀順の生家があった場所で、その日本庭園を擁した隅田公園は復興三大公園のひとつとして整備されました。

第六十六地区『東京特別都市計劃土地区劃整理地区現形並換地位置決定図』

隅田公園『帝都復興史 附・横浜復興記念史』

その後「帝都復興計画」は紆余曲折の議論を重ねましたが、財界を始めとする各方面からの反対に遭い、最終的には5億7,500万円まで予算は削減されました。またその直後から様々な政治的スキャンダルも発生して早々に後藤新平は失脚し、翌年1924年(大正13年)2月25日には「帝都復興院」が廃止され「復興局」が設置されましたが、そこでも多数の疑獄事件が発生するなど様々な不祥事が続きました。しかし、帝都復興計画で後藤新平が強く主張した環状道路と放射道路の整備は実現することとなり、東京の幹線道路網の基本的骨格はこの時期に形成されました。

内務省告示四〇九号 1927(昭和2年)年08月18日

現在の旧山手通りについては、1927(昭和2年)の内務省告示により環状六号線の一部として整備することが決定しました。

東京都市計画道路網図 1928年(昭和3年)

この地図に見られるように、現在の旧山手通りは幅員22mの環状6号線として計画路線のひとつになっています。
そして、現在の山手通りや駒沢通りは「完成又ハ工事中」の街路ということになっています。一方、八幡通りについては「計画ノミニ止ムルモノ」の扱いになっています。

『旧1万分の1地形図』国土地理院 左:1909年(明治42年) 右:1928年(昭和3年)

これは、1909年(明治42年)と1928年(昭和3年)の『旧1万分の1地形図』の比較です。左が明治末期で右が昭和初期ですので、大正時代にどのような道路が整備されたのかがわかることと思います。
関東大震災発生の直前である1922年(大正11年)にも『旧1万分の1地形図』が作成されていますが、その時点では目黒川はまだ大きく蛇行しており1909年(明治42年)の状態から変化していません。また、現在のように幅員が広く直線化された山手通り(環状6号線)も整備されていませんでした。したがって、目黒川(青)及び山手通り(黄)は、関東大震災発生直後に同時に整備されたと考えられます。

明治末期の地図に描かれている角谷製綿工場は1916年(大正5年)に廃業しましたので、その後に鉢山分水路の流路が道路化され現在の野沢通り(緑)が整備され、併せて西郷山トンネルも整備されたものと推察します。現在の旧山手通りに相当する道路(赤)は、1928年(昭和3年)の時点では現在の幅員にはなっておらず、渋谷町と目黒村の境界に沿った部分が大正時代に敷設されたことがわかります。

『旧1万分の1地形図』国土地理院 左:1928年(昭和3年) 右:1937年(昭和12年)

これは、同じ場所の1928年(昭和3年)と1937年(昭和12年)の比較ですが、「帝都復興計画」立案後に事業決定された環状六号線の整備事業によって昭和初期に拡幅と直線化がおこなわれ、現在の旧山手通り(赤)の姿になったようです。

『旧1万分の1地形図』国土地理院 左:1909年(明治42年) 右:1928年(昭和3年)

これは、鎗ヶ崎交差点付近の1909年(明治42年)と1928年(昭和3年)の比較ですが、1921年(大正10年)に決定した東京都市計画によって現在の駒沢通り(黄)の整備が進められていたようですが、それに先立ち大正初期には、現在の旧山手通りに相当する道路(緑)の直線化がおこなわれていたようです。

現在の亀山坂(赤)については、『郷土渋谷の百年百話』に「その向い側の窪地に“津田の水車” <中略> その直ぐ傍らから第一商業高校へ通じる道路が、渋谷町の第一号道路と称して町勢全盛時自慢のもの。地先地主が道路敷地の殆んど無償寄付にあるという。いま考えるとウソのようなことの時代。」と記載されていますが、1914年(大正3年)にこの道路は敷設されています。

また、1927年(昭和2年)に東京横浜電鉄が開通しましたが、代官山駅敷設に伴い駅周辺の道路(青)も整備されたようです。ちなみに、この道路(青)の中に建てられている屋敷は東京横浜電鉄社長の五島慶太の屋敷です。
猿楽小学校は1916年(大正5年)の創立で、府立商業高校(現在の都立第一商業高校)は1918年(大正7年)に創立されました。明治末期に岩倉具視の別邸であった土地は、岩倉具視の孫の岩倉具張の不祥事によって1914年(大正3年)頃に根津嘉一郎に売却されたのではないかと考えられます。
(岩倉家が所有権を失った後の権利者から根津家が購入したのか、岩倉家から根津家に直接譲渡されたのかは不明です)
※参照:「西郷家と岩倉家」

『旧1万分の1地形図』国土地理院 左:1909年(明治42年) 右:1928年(昭和3年)

これは、現在の恵比寿西1丁目・2丁目付近の1909年(明治42年)と1928年(昭和3年)の比較ですが、大正末期に現在の駒沢通り(黄)の整備が進められ、1927年(昭和2年)に渋谷橋と中目黒を結ぶ玉川電気鉄道の中目黒線が開通しました。また、1912年(明治45年)に東京府豊多摩郡臨川(りんせん)第二尋常小学校(現在の長谷戸小学校)が諸戸精太商會の所有地に創立されましたが、それに伴い現在の恵比寿南の交差点から恵比寿の五差路に至る道路の一部(青)も整備されたようです。

恵比寿駅前から公会堂までを繋ぐ公会堂通(赤)については、「明治の頃は全くの「たんぼ道」荷車も往き交れない狭いみち。」と『郷土渋谷の百年百話』に書かれていますが、元は水田だった沿道一帯は渋谷町立公会堂の建設に合わせて朝倉虎治郎、角谷輔清ら渋谷町の有力者が協力し用地買収をおこない、三田用水猿楽分水路沿いの畦道を利用して敷設したのではないかと考えられます。
そして、東京横浜電鉄(1927年開通)の敷設に伴い、現在の代官山町と恵比寿西2丁目を繋ぐ踏切の設置と道路(緑)の整備もおこなわれたと考えられます。

渋谷町立公会堂『渋谷の記憶Ⅲ 』1932年(昭和7年)

ちなみに、渋谷町立公会堂は1915年(大正4年)に、朝倉虎治郎ら渋谷町公友会議員団の建議によって建設されることになりましたが、建設費は全額寄付で賄うことと決議されたために、町長自らが町内各戸を訪問し募金に努め、四万四千円を集めたと『郷土渋谷の百年百話』には記載されています。公会堂は1918年(大正7年)に完成し、選挙演説会場や投票場、会議場、講演会場など多様な用途に使用されたようです。1932年(昭和7年)に渋谷区が成立した後には、税務署として使用されたり渋谷区立商業高校に使用されたりしたようですが、太平洋戦争の空襲により焼失したようです。

『旧1万分の1地形図』国土地理院 左:1909年(明治42年) 右:1928年(昭和3年)

これは、代官山地域北東部の1909年(明治42年)と1928年(昭和3年)の比較ですが、前述のように亀山坂(赤)が大正時代に敷設されています。
たばこ王・岩谷松平が明治後期に購入した土地(青)は、1920年(大正9年)に岩谷松平が没した後に順次売却されてゆき、それに伴い新たな私道の敷設がおこなわれていったようです。
※参照:「てんぐ坂の由来とたばこ王・岩谷松平について」

関東大震災の復興住宅団地である同潤会渋谷アパート(緑)は、1927年(昭和2年)に完成しましたがその建設に伴い敷地内に道路、広場を敷設しました。その他の代官山町(黄)の部分は、限られた人数の1,000坪以上の土地を所有する大地主によってその多くの部分は所有されていましたが、借地に戸建て住宅を建設する人の増加に伴い、随時私道の敷設がおこなわれたようです。そのため、八幡通りと東京横浜電鉄沿いの道路(現在のキャッスルストリート)との間の路地は現在も私道のままです。

『旧1万分の1地形図』国土地理院 左:1928年(昭和3年) 右:1937年(昭和12年)

これは、同じ場所の1928年(昭和3年)と1937年(昭和12年)の比較ですが、「帝都復興計画」では前述のとおり、八幡通り(赤)は「計画ノミニ止ムルモノ」となっていましたけれども、渋谷町の事業として猿楽橋の建設および拡幅工事が実施されたようです。

また、現在の鉢山中学の前の道路(緑)も亀山坂までの区間が拡幅されると同時に直線化されたようです。また、第五代日銀総裁を始め複数の閣僚を歴任した山本達雄の娘の山本笑(えみ)が所有する広大な敷地を貫く形で猿楽町から桜丘町までを繋ぐ道路(青)も整備されました。そのため、小規模な三角地帯が残ってしまうことになりましたが、これらは現在もそのままの形で残っています。

かつて、西郷従道が沿道に桜を植えて整備したと云われる「西郷さんの馬車道通り」(黄)もこの時期に拡幅されたようです。

八幡通り 昭和16年 『目で見る渋谷区の100年』

このようにして、現在の代官山地域のメインストリートと云えるような道路のほとんどは、大正時代から昭和初期にかけて整備されたようです。

代官山の歴史シリーズ

1.江戸時代の代官山
2.内記坂の謎
3.明治時代の代官山の土地利用
4.西郷家と岩倉家
5.てんぐ坂の由来とたばこ王・岩谷松平について
6.西郷従道邸のこと
7.三田用水分水路の水車と明治・大正時代の代官山の産業
8.代官山に東横線が通るまで
9.昭和初期の代官山-お屋敷町の形成-
10.大正時代の都市計画と昭和初期の代官山の道路事情
11.同潤会代官山アパートメントの完成
12.敗戦後の代官山
13.代官山集合住居計画にはじまる1970年代の代官山
14.雑誌記事で辿る1980・90年代の代官山
15.同潤会代官山アパートメントの記憶と代官山地区第一種市街地再開発事業
16.21世紀を迎えた代官山は…

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