敗戦後の代官山

FOR STUDY

日本は太平洋戦争に敗戦し、1945年(昭和20年)に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が東京に設置されてから、1952年(昭和27年)に連合国諸国と日本国との間でサンフランシスコ講和条約が締結されるまでの間、アメリカを中心とする連合国諸国による占領がおこなわれ、多数の民間住宅が主として駐留軍の上級将校用の住居として接収されました。代官山は田園調布などと同じようにお屋敷町で都心にも近く、設備が整っていて部屋数も多い欧米風の生活に適した住宅があったことから多くの住宅が接収されたようです。


代官山の接収住宅

上の地図は1948年の『City map central Tokyo』です。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が接収した建物に番号が付けられ記載されています。『図説 占領下の東京』には、旧山手通り沿いでは15戸の接収住宅があったと記載されています。この地図で見る限りでは、代官山地域内では16戸の住宅が接収されたようです。
地図に記載された番号の位置から推察すると、「783」の住宅は、著名な昭和モダニズムの建築家である土浦亀城が設計した角谷輔清邸ではないかと思われます。「144」は朝倉精米所の敷地内の建物のようです。「660」はたばこ王・岩谷松平のライバル、村井兄弟商會の家系にあたる村井四郎家の屋敷、「659」は南満州鉄道総裁の早川千吉郎、「1055」は東武鉄道の創業者、根津嘉一郎の別邸、「599」は自動車評論家徳大寺有恒の実家、「598」は実業家池尾芳蔵の屋敷ではないかと考えられます。その他の番号が付けられた家屋(US House)については、リストなどの資料を見つけることが出来ていませんので不明です。
参照:昭和初期の代官山-屋敷町の形成-

1950年代の八幡通り

カナダ大使館書記官邸 1957年

『City map central Tokyo』はアメリカ軍が作成した地図ですので、その他の連合国が接収した住宅についての記載は無いのかもしれません。この写真は、猿楽古代住居跡公園の前の道路と八幡通りが交差するT字路の角(猿楽町10-8)に建っていた屋敷で、カナダ大使館の書記官住居として使用されていたようです。この場所は、昭和初期には大韓医院薬局長を務めた兒島高里の屋敷でした。

八幡通り 1951年

この写真は、同じ建物が写っている1951年(昭和26年)に撮影された八幡通りの写真です。背景には木造家屋以外の高い建物は一切写っていません。

カナダ大使館書記官邸 1955年

この写真は、同じ屋敷を別の角度から撮影したものです。1955年(昭和30年)に撮影されたものとされていますが、この写真では八幡通りが石畳で舗装されていますので、もう少し古い時代の写真かもしれません。

さんせい酒店 1955年

これは、現在もそのT字路で営業している「さんせい酒店」と「マツシタ青果店」の1955年(昭和30年)頃の写真です。この写真では、八幡通りはアスファルト舗装になっているように見えます。

さんせい酒店前 1963年

この写真は、1963年(昭和38年)にさんせい酒店の前で八幡通りを撮影した写真です。まだこの時代には、歩道と車道を遮るガードレールは設置されていませんでした。また、交差点には信号機も横断歩道もまだ無いようです。

さんせい酒店 撮影年不明

この写真も、そのT字路から並木橋方面に向かって八幡通りを撮影したとされている写真ですが、写っている自動車の量やデザイン、信号機や横断歩道があることなどから考えると、昭和40年代以降に撮影されたものかもしれないと考えられます。

八幡通り 1955年(昭和30年)『渋谷の記憶Ⅱ』

この写真は、同潤会アパートの5号館の屋上から八幡通りを撮影したものと思われます。右手手前のコンクリートの建物は同潤会アパートの21号館です。その向こうに見える煙突のある切り妻屋根の建物がカナダ大使館書記官邸です。
手前の八幡通りの左側には板塀で囲まれた木造家屋が見えますが、同潤会アパートが完成した1927年(昭和2年)当時は、本屋、森永ベーカリー、一杯飲み屋、ミルクホール、瀬戸物屋などがあったという記録があります。しかし、この一帯は空襲により焼失したために、森永ベーカリーは東横線の線路脇に移転したと云われていますので、ここに写っている建物は戦後に建設されたものと考えられます。
左手奥に細長い木造の建物が見え、その左には四角いコンクリート製の建物が見えますが、これは猿楽小学校です。この写真でわかるように、昭和30年代の代官山はビルがほとんど無い町でした。

トモエ薬局 年代不明

同潤会アパートの屋上から1955年に撮影された写真よりも手前の(旧山手通りに近い)場所を撮影した写真です。撮影された年代は不明ですが、この時点では奥の方に団地状の建物が2棟写っています。右の建物の屋上の搭屋には「“K”LINE」のロゴマークが見えますので、川崎汽船株式会社の社員住宅であることがわかります。
お葬式の花輪が掛けられ、歩道にテントが張られている建物の場所に、現在は1階にシェ・リュイがあるビルが建っています。
東横線沿線のタウン誌として発行されていた『とうよこ沿線 №35』の取材で、写真に写っているトモエ薬局の小山さんが語った話によれば、「現在のパシフィックマンションの所(猿楽町10-1 現在のマンサード代官山)がロシアの小学校だったことがありまして、この辺にはたくさんのロシア人が住んでいたのです。」ということのようですので、冒頭の『City map central Tokyo』に記載された接収住宅以外にも外国人が居住する住居が多数存在していた可能性があります。

八幡通り 1953年(昭和28年)

八幡通り 1953年(昭和28年)

長い間代官山の名物として親しまれていたコロッケを販売していた伊東精肉店や瀬戸青果店などが開店した1953年(昭和28年)当時の写真です。現在の代官山アドレスの人工芝の広場(アドレスコート)に通じる、福招庵などがある路地の入口付近を撮影したものです。

代官山郵便局 1955年(昭和30年)

右手の白い建物が代官山郵便局です。1955年(昭和30年)に撮影されたもののようです。この時点では、八幡通りは石畳で舗装されているように見えます。
前述のトモエ薬局の小山さんの弁によれば「当時の八幡通りでは昼間から車道で羽根つき、タコあげなどができ、雪が降れば雪ダルマをつくって遊べる時代でしたから。この辺は同潤会アパートに代表される森閑とした住宅地で、1台の車が通ればまた静寂、といった静かな別荘地みたいな所でした。」というような時代だったようです。

堀井商店 1955年(昭和30年)

これも同じ時代の写真です。八幡通りと亀山坂に続く道路の交差点(現在の代官山駅入口交差点/代官山アドレス側には歩道上にひまわりのモニュメントが建っている)の角に建つ堀井商店を写しています。ひとつ前の代官山郵便局を写した写真の並びで、亀山坂に向かう道路を越えて旧山手通りにより近づいた位置関係になります。写真の右端に亀山坂に続く道路が写っています。

八幡通り 1955年(昭和30年)

この写真は八幡通りのさらに旧山手通りに近い部分を写した写真です。右上の物干し台のある家屋の一角が現在は代官山プラザになっています。その向こうの樹木で覆われた敷地との間には路地があります。この敷地には、後にオンワード樫山が鈴木エドワードの設計でジャン・ポール・ゴルチェのビルを建設し、現在はそれが建替えられてグレースコンチネンタルになっています。

猿楽橋高架下 1955年(昭和30年)

これは1955年(昭和30年)に撮影された猿楽橋の高架下の写真です。現在は車の通行量が極めて少ない場所ですが、この時に何故これほどの渋滞が発生していたのか、その理由は不明です。しかし、車を降りて坂の上の方を見ている人がいることから、事故による渋滞の可能性も考えられます。うしろに見える線路が山手線で、右手のコンクリートの壁面が猿楽橋です。
高架下の細い道路は、1946年(昭和21年)4月25日の戦災復興院告示第15号で拡幅・直線化することが決定した路線ですが、70年間に亘って放置されていたにもかかわらず、桜丘地区の市街地再開発事業が決定すると2025年までに優先的に整備すべき路線に位置づけられました。
これが実施されると、現在山手線沿いに建てられている建物群は撤去されることになります。

1950年代のキャッスルストリート

キャッスルストリート 1950年代

この写真は東横線の線路越しにキャッスルストリート沿いの家並みを撮影した写真です。写真右手の少し先に山手線を跨ぐ高架橋がある位置です。1950年代に撮影されたものと思われます。奥に見える白い大きな建物は、並木橋にあった「テレビ技術者養成所」と壁面に書かれた建物です。子供の後ろに見える東横線の線路は、現在は地下に埋設され、その場所には現在、ログロード代官山の5号棟(HOUSE GARDEN CRAFTS)が建っています。

キャッスルストリート 昭和40年代

この写真は、前の写真に写っていた家並みのある辺りを昭和40年代(1970年前後)にキャッスルストリートから撮影した写真です。ほとんどの家屋は建替えられているようです。道路の奥の右手には東横線がキャッスルストリートを跨ぐ高架橋が見えます。旧山手通りの沿道や代官山駅界隈の雰囲気とはだいぶ趣が異なる街並みです。

1950・60年代の旧山手通り

旧山手通り 1954年(昭和29年)

これは1954年(昭和29年)に旧山手通りで撮影された写真です。左手のバスの後ろに火の見櫓が写っていますが、『猿楽雑記』には昭和19年(1944年)の話として「猿楽塚の脇(現在ヒルサイドテラスD棟、松之介ニューヨークの所)に消防署と火の見櫓が設置された。」と書かれています。また、写真の右手に2階建の木造建築が写っていますが、これは現在もハリウッドランチマーケットとして使われている、かつては木造家屋だった建物です。

旧山手通り 1955年(昭和30年)

これは、前の写真とほぼ同じ場所で1955年(昭和30年)に撮影された写真です。人物の後ろに見える大きな木立は、旧徳川圀順邸(現在はT-SITE)です。この時代は、ほとんど車の往来も無く、歩道にはガードレールも植え込みも無かったことがわかります。

旧山手通り 1956年(昭和31年)

この写真は1956年(昭和31年)に、現在のヒルサイドテラスB棟の向かい側に開店したガソリンスタンドを撮影したものです。当時は旧山手通りが石畳の道であったことが良くわかります。当時は、旧山手通りの自動車通行量は極めて少なく、ガソリンスタンドの経営にはあまり向いていなかったようです。

旧山手通り 1968年(昭和43年)

これは、ヒルサイドテラスA棟の着工に向けて、朝倉家の不動産事業会社であった共託社の建物を1968年(昭和43年)に解体したときの写真です。このときには、前の写真のガソリンスタンドがモービル石油から出光石油に代わっていることが確認できます。

鎗ヶ崎 1960年(昭和35年)

この写真は1960年(昭和35年)に撮影された、現在の代官山交番から鎗ヶ崎の交差点までの間の、旧山手通りが坂道になっている辺りの写真です。建物の奥が高台になっていることがわかりますが、その最も高い稜線の部分に三田用水が流れていました。

五島慶太邸付近 1960年(昭和35年)

この写真は同時期に、前の写真の旧山手通りを挟んで反対側(代官山駅側)を撮影したものです。石油タンク車の後の屋敷は五島慶太邸で、現在は東急アパートメント代官山タワーになっています。

東横線トンネル 1963年(昭和38年)『目黒の風景100年』

この写真は、ひとつ前の写真にあった三田用水が流れる稜線の反対側にあたる東横線のトンネルを1963年(昭和38年)に撮影した写真です。東京オリンピックの開催に合わせて、地下鉄日比谷線を中目黒まで延伸する工事が始まっています。

東横線線路 昭和20年代『目黒の風景100年』

東横線線路 1964年(昭和39年)『目黒の風景100年』

上の写真は、昭和20年代の新道坂と東横線の線路を写したものです。下の写真は、地下鉄日比谷線が開通した1964年(昭和39年)のものです。右手の根津嘉一郎の所有地を大きく削って、東横線の上下線の間に地下鉄日比谷線を通すことが出来るようにしました。

鎗ヶ崎水道橋 年代不明

これは撮影時期が不明の鎗ヶ崎交差点の写真ですが、新道坂の脇にあったトンネルの解体工事が始まっているようですので、地下鉄日比谷線延伸工事をおこなっていた1960年代初め頃のものだと思われます。バイクが向かっている方向が旧山手通りで、当時は駒沢通りに市電が走っており、その上には三田用水の水道橋が架かっていました。

鎗ヶ崎交差点 1963年(昭和38年)10月31日『目黒の風景100年』

この写真は、鎗ヶ崎交差点を反対の中目黒側から1963年(昭和38年)10月31日に撮影したものです。交差点脇のトンネルは既に撤去されています。三田用水は1974年(昭和49年)に廃止され、それによって水道橋も撤去されました。

鎗ヶ崎 年代不明

この写真の撮影時期は不明ですが、1960年代に撮影されたものと思われます。駒沢通りの鎗ヶ崎交差点の南東側、恵比寿南3丁目まで三田用水が流れる稜線は続いており、駒沢通り沿いの高台には洒落た家屋が建っていましたが、現在はすべて切り崩されビルが立ち並んでいます。右端上部に水道橋が写っています。

ここに至るまでの時代背景

日本は明治維新以後、19世紀後半から始まったとされる、西欧の資本主義列強諸国が国是とした植民地帝国主義を踏襲し、日清戦争に勝利したことによって1895年(明治28年)4月17日に締結された下関条約によって台湾の領有権を獲得し、続く日露戦争では薄氷を踏むような戦いを続けていましたが、日本海海戦で勝利を得たことで1905年(明治38年)9月4日にアメリカに仲介を頼みポーツマス条約を締結し、ロシアから賠償金を得ることは出来ませんでしたが、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得しました。(しかし日本国民は、ポーツマス条約の講和条件では戦勝国としては不十分であると不満を持ち、同時にそれを仲介したアメリカに対しても反米感情を抱きました)
この時すでに日本には日露戦争を継続するだけの資金が無くなっていたことを国民は知らされなかったため、呑気にもこの勝利に多くの日本国民はオリンピックでの日本人選手の金メダル獲得を喜ぶのと同じように歓喜し、日本の海外侵略政策を支持する世論が形成されました。
その後、1909年(明治42年)7月6日に日本は「適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱」を閣議決定し、1910年(明治43年)8月22日には「韓国併合ニ関スル条約」が調印され、大韓帝国を併合しました。
これによって日本は、16世紀末の豊臣秀吉政権以来の悲願であった中国(明)の征服への橋頭保(きょうとうほ)としての朝鮮半島の領有を実現しました。(ちなみに、同時期の16世紀末にイギリス、オランダ、フランスなどは特権会社である東インド会社を設立し、アジア大陸全般への経済的侵略を開始し、その後それらの進出先を植民地化しました。)

その後、思い上がっていた日本国民の世論を背景に、さらに思い上がった大日本帝国軍部の暴走によって1931年(昭和6年)9月18日に柳条湖事件が勃発し、それを契機として上海までへも侵略を続け1932年(昭和7年)3月1日には満洲国の建国を宣言しました。これに対する西欧の資本主義列強諸国の反発は大きく、国際連盟では1933年(昭和8年)2月24日に「満洲国の存続を認めない勧告案」が採決され、それによって大日本帝国は国際連盟からの脱退を表明しました。

その後、1937年(昭和12年)7月7日に中国革命国民軍との間に盧溝橋事件(日中戦争=支邦事変の発端)が勃発すると、中国共産党(毛沢東)は重慶国民政府(蒋介石)と共同(国共合作)で徹底抗戦することを決め、それに対して大日本帝国は傀儡(かいらい)政権である中華民国国民政府(南京国民政府)を樹立し日中戦争(支邦事変)の収束を図ると同時に、重慶国民政府への英米露の支援物資輸送路である「蒋援ルート」を遮断するために香港やインドシナ半島(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)、ビルマ(現在のミャンマー)にも侵攻しました。

一方で、1939年(昭和14年)9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発すると、日本ではドイツやイタリアに見習い「一国一党組織」を目指す機運が高まり、ほぼ全ての政党が自発的に解散し「大政翼賛会」(政治結社ではなく公事結社と規定された)に合流し、1942年(昭和16年)の衆議院選挙では陸軍の臨時軍事費から支出された選挙資金で当選した翼賛政治体制協議会(翼賛政治会)所属の議員数が衆議院議員総数の8割を超えました。翼賛政治会では「政府提出法案を無修正で速やかに可決させることで戦争遂行に協力することが帝国議会議員の義務である」としていました。

大日本帝国の日露戦争の勝利以降、すでに太平洋での覇権を確立し中国への進出も目論んでいたアメリカは、日本の領土拡張政策に対する警戒心を強めており、日本の国際連盟脱退に続く1940年(昭和15年)9月27日の日独伊三国同盟の締結に至って、日本の経済的弱体化とアメリカの太平洋制海権の掌握を目的として屑鉄の対日禁輸を決定しました。(日本の反米感情に対して、白人至上主義社会であったアメリカでも黄色人種蔑視、黄禍の風潮が浸透していました)その後、日本がフランス領インドシナ南部への進駐を開始するに至って、イギリス、アメリカ、オランダなどが鉄類、石油などの日本への輸出禁止を決定しました。

ここに至って大日本帝国は1941年(昭和16年)11月5日に御前会議を開催し「英米蘭戦を決意すること」が承認され、1941年12月8日にハワイ州オアフ島真珠湾を攻撃しました。
この戦争について大日本帝国側では「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、大東亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」という名目を立てて「大東亜戦争」という呼称を用いていました。

ちなみにレーニンは帝国主義について「資本主義が発展することで成立する独占資本が、市場の確保や余剰資本の投下先として新領土の確保を要求するようになり、国家が彼らの提言を受けて行動する。いくつもの国家が帝国主義に従って領土(植民地)を拡大するなら、世界は有限であるから、いつかは他の帝国主義国家から領土(植民地)を奪取せねばならず、世界大戦はその当然の帰結である。」と書いているそうです。

太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)11月から降伏までの期間に、東京は130回の空襲を受けたそうです。1945年(昭和20年)3月10日の下町を攻撃目標とした東京大空襲の後、4月から5月にかけて4度おこなわれた大規模空襲は「山の手空襲」と呼ばれたそうです。4月13日の空襲は明治神宮に集中して焼夷弾投下がおこなわれ、5月25日には渋谷、青山などだけでなく広範囲が爆撃対象になりました。この空襲を最後に米軍は「主要目標なし」として東京を大規模爆撃リストから除外したと『ワシントンハイツ(新潮社 秋尾沙戸子著)』には書かれています。

代官山は、一面が焼野原になったわけではなかったようですが、現在の代官山郵便局がある一帯は罹災(りさい)し、そこにあった森永ベーカリーは東横線脇に移転したようです。また、朝倉家の所有地の一部も罹災したことが『猿楽雑記』には記載されています。東横線にかつて存在していた並木橋駅や山手線の近くにあった渋谷区公会堂(恵比寿西)、旧西郷従道邸の和館も空襲によって焼失したと云われています。

そして最終的には、大日本帝国政府は1945年(昭和20年)7月26日に発表された「ポツダム宣言」を受諾し、同年8月15日に天皇が国内に向けて「ポツダム宣言」を受諾し太平洋戦争の連合国に対して無条件降伏することを発表し、同年9月2日には東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリの甲板上において「降伏文書(休戦協定)」に調印しました。

その後、1945年(昭和20年)10月2日にダグラス・マッカーサー元帥が最高司令官に就任した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が東京の第一生命館に設置され、1952年(昭和27年)4月28日に連合国諸国と日本国との間でサンフランシスコ講和条約が締結されるまで、総司令部(GHQ)はポツダム宣言を執行するための極東委員会で決定された政策を日本政府に対して執行しました。

1945年(昭和20年)10月4日にダグラス・マッカーサー元帥は日本政府に対して憲法改正を示唆しました。当初、総司令部(GHQ)は憲法改正については過度の干渉をしない方針でしたが、日本政府内での草案の作成に時間がかかっているために、このまま日本政府に任せておいては、極東委員会の国際世論(特にソ連、オーストラリア)から天皇制の廃止を要求されるおそれがあると判断し、自ら草案を作成することを決定しました。1946年(昭和21年)2月3日にマッカーサー元帥は憲法草案を起草するに際して守るべき三原則をホイットニー民政局長に提示し、2月13日には「マッカーサー草案」(GHQ原案)が日本政府に提示されました。
日本政府は2月22日の閣議で「マッカーサー草案」の受け入れを決定し、その後若干の修正を加えた後の11月3日に日本国憲法は公布されました。

マッカーサー元帥が提示した三原則は、1.国民主権の基の天皇制の存続 2.戦争放棄 3.封建制の廃止 でしたが、『GHQカメラマンが撮った戦後ニッポン』には、「その意図は、天皇を「象徴化」するという、本来、国家の基本法にはなじまない言葉を用いて天皇制反対という海外の批判を懐柔する一方で、天皇制を存続させることで、占領統治を順調に進めることだった。 <中略> 「戦争放棄」という条項を含んだ新憲法を提示し、「非軍事国家日本」というイメージを高らかに謳い上げることで、海外の対日懲罰派を懐柔しようとした。つまり、憲法1条と憲法9条という二つの条項をセットにすることで、マッカーサーは世界世論にこの新憲法を承認させようとしたのである。憲法9条は天皇制を維持するために日本国憲法に挿入されたといっても過言ではない。」と書かれています。
(実は「戦争放棄」については幣原(しではら)首相がマッカーサー元帥に提案したと、マッカーサーの回顧録や幣原の回想録には記載されているようです)

1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて、連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた「極東国際軍事裁判(東京裁判)」がおこなわれました。この裁判では、東条英機元内閣総理大臣を始めとする日本の指導者28名を「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」したとして、平和に対する罪(A級犯罪)、人道に対する罪(C級犯罪)および通常の戦争犯罪(B級犯罪)の容疑で裁いたものでした。しかしこの裁判はマッカーサー元帥の意向によって天皇は免訴すると決めていたので、天皇の軍を直轄する権限としての軍令や統帥権を自在に利用していた軍参謀や高級軍人を出廷させては天皇の責任も問われることになってしまうため、それらの軍の要人は被告から除外されたと云われています。そのため、この裁判は戦勝国による復讐ショーに過ぎなかったとの見解もあるようです。

東京裁判については様々な評価があり、文明の名のもとに法と正義によって裁判を行ったという意味で「文明の裁き」であるという見方もあれば、裁く側はすべて戦勝国が任命した人物で戦勝国側の行為(原爆投下など)はすべて不問だったことなどから「勝者の裁き」であるという意見もあります。また、マッカーサー元帥は後に「資源の乏しかった日本が原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって、戦争にむかった目的は、主として治安のためだったのです」と上院で証言したと云われていますが、その一方で「新秩序」を構築してアジアを解放しようとしたという「共栄圏」スローガンは「日本のためのアジア」構築の策略であり、日本が犯した侵略行為が正当化されるものではないという意見書を提出した判事もいました。

いずれにしても、東京裁判によって「日本国民は自らを軍国主義者の「犠牲者」とするイメージを第一に抱き、日本人全員が負うべきアジア太平洋戦争の責任というものを感じない心理構造ができ上がった。」と『GHQカメラマンが撮った戦後ニッポン』では書かれています。また同時に、「日本人は、米国に負けたという意識はあってもアジア諸国の抗日戦争に負けたという意識はほとんどなかったのだ。」とも書かれています。

占領開始当初連合国は、日本を他のアジア諸国と同様に米国および欧州連合国(資本主義国)に従属的な市場に解体するために、極度な日本弱体化政策をとることにして、占領目的の巨額な財政支出と労働力を日本政府に負担させる一方で、日本の経済的困窮は日本の責任であると切り捨て、日本国民の努力によってまかなうことであるとしていました。また初期の極東委員会は、賠償金を払う以上の日本の経済復興を認めず、GHQもドイツに対してと同様に日本の脱工業化を図るために重化学工業産業の解体を進めました。一方日本政府は、経済復興に必要な基幹産業である石炭と鉄鋼の増産のために計画経済政策を採用し、それに必要な資金を用意するために通貨供給量を増やしたことでインフレーションが発生し、日本国民の生活は困窮しました。また貿易も連合国の管理下にあったため輸入物資のほとんどはアメリカからの援助費で賄われていました。

しかし1947年(昭和22年)になると、日本の民主化と非軍事化政策は成功しているという判断もあり、8月15日には対日経済封鎖が緩和され、米国のアチソン国務次官が「アジアおよびヨーロッパにおける2大工場として、この2大陸の究極の復興を左右する日独両国の復興を促進する」という方針を発表し、1948年(昭和23年)1月6日には、米国のロイヤル陸軍長官が「日本を反共の砦にする」と演説し、日本の経済復興を促進する方向に占領政策は転換しました。そこでデトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジが派遣され、超均衡財政予算による金融政策が実施されたことによってデフレーションとドッジ不況が到来しましたが、ブレトン・ウッズ体制によって、円安に設定された固定相場制の為替レートが1949年(昭和24年)4月25日に発効し、その状態で国際市場への復帰(貿易拡大)が可能になったことと、タイミング良く多額の対外債務を抱えていた日露戦争後に第一次世界大戦の勃発によって輸出量が増大し「大戦景気」が到来したのと同様に、1950年(昭和25年)の朝鮮戦争の勃発によって「朝鮮特需」が到来し大幅な輸出拡大を実現することが出来たことと合わせて、占領統治下の状態から日米安全保障条約による米軍の駐留が継続したことにより、防衛軍事費の負担を避けることが出来たことによって、日本はまれに見る速度での経済復興を実現しました。
(『GHQカメラマンが撮った戦後ニッポン』では「二つの巨大共産主義国家(ソ連と中国)に隣接している同盟国として、日本は安全保障面と経済面での脆弱性を逆に最大の資産として利用した(いわゆる弱者の恐喝)のである。」という解説が記されています)

その頃アメリカは、1949年(昭和24年)4月に「北大西洋条約機構(NATO)」を締結するなど、ヨーロッパでのソ連(共産主義国家)封じ込め政策を進めていましたが、1950年(昭和25年)6月25日に北朝鮮が韓国に進撃し朝鮮戦争が勃発すると、国連はこれを北朝鮮の侵略行為と断定して国連軍(実態は米軍)を派遣することになりましたが、これによって日本での駐留米軍の多くが朝鮮半島に移動することになり、日本での治安維持や防衛に不安が生じたために、GHQは日本に対して警察予備隊(のちの陸上自衛隊)の創設を指示し、憲法9条の規定があるにもかかわらず一部の警察予備隊は朝鮮戦争に参戦したといわれています。
(ソ連は「ポツダム宣言」発表直後の1945年8月8日に日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告をおこない、「ポツダム宣言」受諾後の8月28日から択捉・国後・色丹島の占領を開始し、「降伏文書(休戦協定)」調印後の9月5日には歯舞群島を占領しており、GHQの占領統治下であっても日本の国土に対する安全保障上の脅威は存在していたものと考えられます)

1952年(昭和27年)4月28日に「日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)」が発効しましたが、第5条(c)において「連合国は、日本が主権国として国連憲章第51条に掲げる個別的自衛権または集団的自衛権を有すること、日本が集団的安全保障取り決めを自発的に締結できること」を承認し、第14条(b)において「連合国は、連合国の全ての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権、占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄」することが決まりました。
この賠償請求権の放棄については、第一次世界大戦の戦後処理において、ドイツに対し膨大な賠償額を要求したことがドイツ経済の疲弊を招き、第1条で国民主権を規定し、当時としては世界で最も民主的な憲法とされたヴァイマル憲法(ワイマール憲法)の基で、合法的かつ民主的に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が国会での最多議席を獲得し、第二次世界大戦勃発の遠因になったことの反省に基づいているということです。
しかしながら、後に日本国政府は東南アジアの4カ国とは個別に二国間協定を結び賠償し、また別途6カ国に対しても準賠償の形で賠償に類する無償供与を提供しました。
(サンフランシスコ講和条約の締結と同時に日本は「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(日米安保条約)」を締結し、これによってアメリカは「望む数の兵力を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を確保しました)

その一方で、連合国は日本の企業(財閥など)が大日本帝国政府とともに自分達と敵対したことに対して何らかの制裁を課す必要があると考えていたため、第二次世界大戦中の国家総動員法や軍需会社法に基づいて大日本帝国政府が国内の企業に対して負った債務補償(戦時補償債務)については、GHQが1945年(昭和20年)11月24日に「戦時利得の除去および国家財政の再編成に関する覚書」を日本側に通告し、1946年(昭和21年)10月29日に「戦時補償特別措置法」が公布され、同法に基づく「戦時補償特別税」が戦時補償債務917億円余に課税されたために債務は実質的に無効となり、銀行や企業は国に対して保有していた債権の回収が出来なくなりました。
またこれに伴い1946年(昭和21年)11月11日に発布された「財産税法」によって、10万円を超える個人の資産(動産、不動産、現預金等)に対しては25%~90%の税率で課税されました。(戦時利得税)
『猿楽雑記』には「タキの死後間もなく巨額の財産税が課せられ本宅の建物と敷地を売却し、さらに弓道場の敷地他約三百坪(現菅野邸)も手放すことになった。」と書かれているように、戦前に代官山で大規模な土地を所有していた資産家の多くがこの時にその所有地を売却または、物納することになったのではないかと推測されます。
代官山には、戦後、NTT(旧郵政省)や日本銀行、地方自治体など公的機関の所有地となった場所がいくつもありました。これらが財産税の徴収に際して物納された不動産であったという可能性も考えられます。また、接収住宅は元の所有者に返還された後に、その所有者が戻ることなく売却された例も多くあるようですので、そのような理由によるものもあると考えられます。
(財産税については、GHQの指示によるものではなく、戦時中に膨大な規模に達していた国債を債務不履行としないために、財産税の徴収によって得た資金によって国債の償還をおこなうことを大蔵省が決定したことによるといわれているようです)

Evergreen Park Homes

さらに、1945年(昭和20年)12月9日には封建制の廃止を目的とする「農地改革に関する覚書」が通告され、不在地主の小作地や都市部では1町歩(1ヘクタール)を超える小作地などが政府に強制的に安値で買い上げられ、実際に耕作していた小作人に極めて安い価格で売り渡されました。
『とうよこ沿線 №35』には「現在の乗泉寺、鉢山中、柴谷さくら幼稚園、公団うぐいす団地、エバーグリーン・パークホーム一帯は、故山本達雄氏(日銀・勧銀総裁、大蔵・内務・農商務大臣)の別荘と洋式農園であった。別荘と農園は、明治30年代に造られたが、昭和20年の東京大空襲により焼失、その後農地改革によって処分され、上記の各所に分割された。」という記事が掲載されています。
一方、エバーグリーン・パークホームズの敷地は1952年(昭和27年)に所有権が松村エミ(旧姓山本)から国際観光株式会社ノースウェスト・エアラインズに移転した記録があります。当初はノースウェスト航空の社員用住宅団地として整備されたものでしたが、その後外国人専用賃貸戸建住宅団地として運営され、2005年に高級賃貸マンション「ラ・トゥール代官山」の建設用地として住友不動産株式会社に売却されました。
また、旧山手通り沿いの水戸徳川家徳川圀順邸は1947年(昭和22年)に日本交通公社に売却されましたが、その後ノースウェスト航空に売却され社宅として長い間使用されました。

外国人が暮らすまち、代官山

ワシントン・ハイツ『図説 占領下の東京』

1945年(昭和20年)の敗戦直後は、日本を軍事占領するべくアメリカ、イギリス、中国、ソビエト及びイギリス連邦諸国など連合国各国の軍隊が最大で43万人駐留し、東京には4万5千人程度が駐留したと云われています。これに伴い「占領軍家族住宅(Dependent House)」を大量に供給することとなり、陸軍代々木練兵場に建設された「ワシントン・ハイツ」などの住宅地区が開発されたほか、洋風住宅や設備の整った近代住宅が高級将校向けの住宅として接収されました。
冒頭の地図で見る限りでは、代官山地域内では16戸の住宅が「占領軍家族住宅(US House)」として接収されたようですが、地図に示されていない場所にカナダ大使館書記官邸があったり、『とうよこ沿線 №35』には、「恵比寿の駐留軍キャンプ(現在の防衛省目黒地区)の外人たちがジープで買物にきて、それは気味の悪いものでした。彼らはオーストラリア兵。」「いち時期、現在のパシフィックマンションの所(猿楽町10-1 現在のマンサード代官山)がロシアの小学校だったことがありまして、この辺にはたくさんのロシア人が住んでいたのです。」といった代官山住人の当時の想い出が掲載されており、US House以外にも住宅の接収がおこなわれた可能性もあるものと考えられます。また、『ワシントンハイツ』には「接収住宅のトップは港区で百三十七戸、続いて渋谷区の百二十五戸だった。」と書かれています。

代官山東急アパートメント

東京急行電鉄株式会社では、サンフランシスコ講和条約が締結された1952年(昭和27年)に公職追放を解除された五島慶太が会長職に復帰し、翌年の1953年(昭和28年)に東急不動産株式会社を設立し、五島慶太の息子、五島昇が社長に就任しました。1955年(昭和30年)5月1日には、東急不動産のほぼ最初の住宅事業である「代官山東急アパートメント」が竣工しました。これは、原宿のセントラルアパートなどと同様に、米軍関係者などを対象とする日本初の外国人専用の高級賃貸共同住宅でした。後には渥美清、天地真理などの芸能人をはじめ日本人も住むようになりましたが、昭和30年代は代官山における欧米人居住の中心的存在だったと考えられます。

代官山には現在も「ガーデン鉢山」のような外国人専用住宅団地が残っているように、昭和30年代以降は欧米人居住地区というイメージがそれまでのお屋敷町という代官山のまちのイメージに付加されました。このことは、以後の代官山イメージの形成に少なからず関与していると考えられます。

代官山の歴史シリーズ

1.江戸時代の代官山
2.内記坂の謎
3.明治時代の代官山の土地利用
4.西郷家と岩倉家
5.てんぐ坂の由来とたばこ王・岩谷松平について
6.西郷従道邸のこと
7.三田用水分水路の水車と明治・大正時代の代官山の産業
8.代官山に東横線が通るまで
9.昭和初期の代官山-お屋敷町の形成-
10.大正時代の都市計画と昭和初期の代官山の道路事情
11.同潤会代官山アパートメントの完成
12.敗戦後の代官山
13.代官山集合住居計画にはじまる1970年代の代官山
14.雑誌記事で辿る1980・90年代の代官山

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