同潤会代官山アパートメントの記憶と代官山地区第一種市街地再開発事業

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同潤会代官山アパートメントは、関東大震災の復興住宅団地として1926年(昭和元年)に完成し、その70年後の1996年(平成8年)に解体工事が始まりました。
完成当時は財団法人同潤会が経営する中産階級(給料生活者)向けの、当時としては最先端の文化的な賃貸住宅団地でしたが、その後紆余曲折を経て住人が土地や建物を共同所有する集合住宅団地になりました。1970年代以降、代官山が訪れたい街としての人気が高まってくるにつれ、モダンで都会的なヒルサイドテラスとレトロで自然豊かな同潤会アパートが醸し出すコントラストが、このまちの根源的な魅力の要素として意識されるようになりました。


太平洋戦争敗戦後の同潤会アパート

同潤会アパートは、財団法人同潤会解散後の1941年(昭和16年)に住宅営団にその経営が引き継がれましたが、日本が太平洋戦争に敗戦すると住宅営団はGHQによって解散指令を受け、閉鎖期間整理委員会(以下、C.I.L.C.)によって清算させられることになりました。
C.I.L.C.は住宅営団所有の住宅をその住民と地方公共団体に対して払い下げることにしましたが、『代官山再開発物語』(赤池学著)の記述によれば、「大多数の住民は終戦直後の経済混乱気に、「食べることが最優先」の生活を続けており、払い下げを受けたくても受けられない状況だった。ましてや、土地を買えと言われても喜んで買うような人は少なかった。かくして、旧同潤会アパートすべてが払い下げを拒否したのである。」ということになったそうです。
そのため、「こうした事態に、CILCは売却価格を引き下げ、東京都に買い取ってもらう交渉を始めた。昭和二十五年十一月、東京都はCILCから都内の旧住宅営団所有の土地・建物すべてを譲り受けることとなった。その結果、東京都内にあった旧同潤会アパートはすべて、都営住宅に変わった。」となりました。

『同潤会のアパートメントとその時代』(鹿島出版会)には、「こうした経緯の中で、ともかく東京都は昭和25年11月に、C.I.L.C.から、都内の旧営団住宅7000余戸を土地とともに5000万円で譲り受けた。その結果、東京都内にあった旧同潤会アパートはすべて一時的にではあるが、「都営住宅」という名目に変わったのである。 <中略> こうして、旧営団住宅売却問題は、「C.I.L.C.と居住者組織間の問題」から、「東京都と居住者組織間の問題」になったのである。」と書かれています。

当初東京都は、「土地は売却せずにそのまま都からの借地とし、建物だけを売却する」という方針だったようですが、東京都との交渉の窓口となっていた鉄筋アパート代表者協議会の代表に代官山居住者組合委員長が就任し東京都との交渉を重ねる中で、各団地ごとの建物の価格と敷地の価格を発表することになったそうです。

このような動きに対して、『同潤会のアパートメントとその時代』の記載では「代官山アパートでは、アパート買取りを居住者が一致協力して推し進めるため、居住者組合を「社団法人」として、払い下げの受け皿にする新しい案が練られていた。」と書かれています。
しかし結果的には、「代官山アパートの中では、このような法人をつくって買い取る意向と、個人単位で買い取る意向が錯綜し、結果的にはこの案は実現することなく、建物に関しては、6年月賦で各住棟ごとに買い取られることになったのである。 <中略> そして、各々の住棟で、共同所有という形で登記がなされていったのである。」となりました。

その後、土地の扱いにも紆余曲折がありましたが、最終的には住棟が建っている土地は住棟所有者による共同所有になり、敷地内の幹線道路や児童遊園などはそのまま東京都の所有ということになりましたが、後に東京都が所有する土地は渋谷区に移管されました。

このような形で住人個々人に払い下げがおこなわれ、団地全体を一括して管理・運営する組織が作られなかったことによって、後に各々の住戸で野放図とも云えるような形での増築・改築がおこなわれ、独特な景観を醸し出すことになりました。

写真展『代官山時間旅行』

写真展『代官山時間旅行』

住人の自己所有物となった同潤会アパート

『代官山再開発物語』には、「代官山アパートではほとんどの住棟の場合、東京都に払い下げ月賦を完済して土地・建物が自己所有となったのは昭和三十二年(1957年)で、昭和三十七年(1962年)の区分所有法の制定以前のことである。」と書かれています。そして、『集合住宅における経年的住環境運営に関する研究 -第5章同潤会代官山アパートにおける住環境運営-』(大月敏雄著)には、「払い下げにより、土地および建物が自己所有になると、居室の狭小さや設備の遅れを、増築によって解決する居住者がでてきた。 <中略> 敷地的に余裕のある2階建住棟エリアに増築が多く、規模も大きい。低層で、全戸が容易に増築できる環境(1階は庭部分に、2階はベランダ部分に)にあることから合意が得やすかったと思われる。」と書かれています。

写真展『代官山時間旅行』1992年撮影

そしてその後は、「いずれにせよ、増築してもすぐに手狭となり、アパート内の別の部屋を買い取る、あるいはアパート外へ転出し、従来の部屋は貸家として他人に貸すような人が現れてきた。 <中略>
建て替えが議論されるようになった昭和五十年代半ばには、全住戸の半分以上は貸家で、しかもそのうち三十軒ぐらいは空き家の状態だったという。
貸家になった場合、住宅のメンテナンスについて、補修が十分に行われたとは言い難い。 <中略>
要するに「集合住宅に住んでいる」という意識が欠けていたのである。当然、管理組合なるものもなかった。 <中略>
こうして、代官山アパートは補修も十分に施されずに老朽化してしまった。 <中略>
一方、代官山の街は、昭和四十三年(正しくは昭和四十年(1965年))にレストラン小川軒が八幡通りにオープン、翌四十四年(1969年)に旧山手通り沿いの一画に住宅・店舗・オフィス・ホールの複合施設ヒルサイドテラスのA棟、B棟が完成した頃から様相が一変した。年々ファッショナブルな店舗が増え、若者を引きつける魅力にあふれた街として生まれ変わりつつあった。
多くの木々に囲まれて、静かな住環境と至便な立地という点では恵まれていたが、代官山アパートは時代から取り残され、周辺の高級住宅地との格差は深まっていった。
このまま代官山アパートが再建されずに老朽化するばかりだったら、かさむ補修費に嫌気をさして活力のある住民は外へ転出し、後には活力のない高齢者のみが残される。スラム化が一気に進行する危険性があった。」と『代官山再開発物語』には書かれています。

代官山の象徴的な景観のひとつとなった同潤会アパート

1970年代から1990年代までに雑誌に掲載された同潤会アパートに触れている記事を抜粋してみます。

『平凡パンチ』1974年4月29日

まるでパリのモンマルトル

建てられたのが昭和初期というから、もう半世紀も前にある。二階建ての小さな住宅なのだが、その小ささも、古びた感じがすごくいいんだな。
そして、そのあいだにつづく道も、桜の木や、草花に飾られていて、散歩道としては最高。
すぐそばに、たくさんの人が住んでいるというのに、そんな生活のにおいがまるでしないのも不思議なほどだ。

写真展『代官山時間旅行』

「ヒルサイドテラスが、アメリカ西海岸の明るいふんい気だとすれば、都営住宅の近くは、どちらかといえばヨーロッパの裏町といった感じですよね。このようにアメリカ的な面とヨーロッパ的な面の両方があるのが、代官山の特徴ですよ」と、永井道夫サンも言う。


『an・an』1983年4月8日

もっと代官山の人達の生活をのぞくのなら、大正時代に建った代官山アパート群の中をお散歩。ローマ水道橋かと思ったら銭湯だったり、アパートの1階には靴屋さんがあったり、英語の看板がさがっていたりして不思議な雰囲気。古いレストラン「代官山食堂」もヨーロッパ・クラシックの世界。

出典不明

写真展『代官山時間旅行』


『東京人』1987年7月1日

郊外の自然の豊かな代官山では、丘の上に独立してそびえる理想を追求した「ムラ」がつくられたのではなかろうか。モダニズムを表現する一つの小宇宙がそこに実現したのだ。
丘陵の林の中には、二階建が二十三棟、三階建が十三棟、建てられている。配置は地形を読みながら、変化に富んだ構成になっている。その間を回遊路が巡り、階段や坂が空間に変化を与える。文化的なムラの生活を支える共同施設もよく整えられた。 <中略>

写真展『代官山時間旅行』

このように内側で完結した同潤会アパートは、表の八幡通りにも本来、背を向けていた。そして今、若い世代と共通する感覚をもった同潤会は、そのひっそりと内に秘めた思いを、外に向けて発信し始めているのだ。

写真展『代官山時間旅行』


『Hanako』1988年11月3日

昔の雰囲気に会いたくて、代官山アパートを訪れてみる。

東京の真ん中とは思えないくらい緑がいっぱい。商店街のにぎわいに疲れたら代官山アパート内を散歩してみるのも手です。

出典不明

特に代官山アパートは表通りから一歩奥に入って印象がだいぶ変わってしまった。ブティックなどの新しい部分だけでなく古い銭湯や食堂がありアドベンチャー感覚が楽しめて大満足。からまる蔦の間から人々の生活が垣間見られるのも、なんとなくあったかいしね。

写真展『代官山時間旅行』

写真展『代官山時間旅行』


『散歩の達人』1998年2月1日

代官山同潤会アパート懐古録

「都会では味わえない別世界でしたね-」懐かしい思い出をたぐりながら、有田公彦さんはつぶやいた。
同潤会代官山アパート。ここにデザイナーの有田さんが仕事場を構えたのは、今から21年前のことだ。鬱蒼と木々が生い茂り、アパートの壁には蔦が幾重にもからみついていた。 <中略>

写真展『代官山時間旅行』

昭和初期のモダニズムを象徴する斬新な設計。プライバシー重視の間取りや凝ったデコレーション、そして中央に広場を設けるなど、現代でも立派に通用する都会的な美意識が、アパート全体を包み込んでいた。 <中略>

写真展『代官山時間旅行』1992年撮影

写真展『代官山時間旅行』1992年撮影

アパートには様々な人たちがいた。サラリーマンや画家、写真家、小説家、そしてデザイナー…。それぞれに個性的で、少し偏屈だったと有田さんは笑う。<中略>
アパートに集う人々も、一筋縄ではいかない“規格外”。でも、居心地はよかった。
「建物に“格の差”を感じましたね。扉の厚さ一枚とっても、戦後の建物では真似できない贅沢な造りをしている。そんな“格”に慣れてしまったら、違う部屋には住みたくなくなりますよ」

写真展『代官山時間旅行』1992年撮影

「代官山アパート団地再開発を考える会」の設立

『代官山再開発物語』には、「アパート全体で建て替えが本格的に議論されるようになったのは、昭和五十四年(1979年)、ある民間デベロッパーによる建て替えに関する意向調査が行われたのが契機となった。翌年春、代官山アパートの町会組織「親隣会」会報上で、ようやくアパート建て替え問題が提起されることになる。 <中略>
五十五年(1980年)十二月には、「代官山アパート団地再開発を考える会」(以下、「考える会」)が結成された。同会の会報第一号には「とにかくどなたでも絶対に損をしないよう、現在より広く良い環境を確保し且つ費用がかからないで達成することを本旨とする再開発案を作り、皆さんの全員の御賛成の上で実現することを期したいと思います」と、再開発に向けての方針が高々と宣言された。」と書かれています。

しかし「代官山アパートの場合、土地の所有形態は住棟別に区分所有されていた。そのほかに、共有地、都有地、渋谷区有地などがあって四十七筆にも分かれており、関係権利者は約六百人にも上っていた。そのうち、土地所有者は権利変換した時点で四百三十五人もいたのである。 <中略>
それに加えて、借家人も多数入居していた。再開発事業の最終段階でも九十人近い借家人がいた。築五十年以上の古いアパートということで、二万~三万円程度の低家賃で借りている人が多かった。当時の代官山付近の相場で考えれば、十分の一程度で借りていたことになる。それほどの安い家賃ならば借家人はよそへ転居しにくい。 <中略> 家主は立ち退きを迫ることになるが、交渉は難航せざるを得ない。」というような状況だったようです。

再開発事業をおこなうには、民間デベロッパーが一括して土地・建物すべてを買収して、等価交換で新しいマンションを建設する方式や、自治体が公共的な都市インフラの整備を目的として住民を立ち退かせて再開発をおこなう方式などがあるが、どれも代官山アパートに関しては現実的ではなかったために、「結局、代官山アパートの建て替え事業は、東京都や渋谷区が構想する都市計画に沿う形で再開発対象を近隣地域にも広げ、道路や公園などの公共施設や駐車場を整備する計画を盛り込み、その代わりに行政側からの補助金が見込める、法定再開発事業を目指すことにしたのである。
代官山地区が行政から都市計画決定を受ければ、土地・建物という財産を提供する代わりに、代官山アパート住民の金銭的負担は実質的になくなる。つまり、組合施行による第一種市街地再開発事業の認定を目標とすることになったのである。」という結論になったと『代官山再開発物語』には書かれています。

しかし、「考える会」が結成された昭和五十年代の半ばには、まだ渋谷区役所内に市街地再開発事業を担当するセクションそのものが存在してはいなかったそうです。そのため、1986年(昭和六十一年)9月に、準備組合は渋谷区恵比寿出張所管内の十六の町会長に働きかけて、再開発事業を指導する部署の設置を求める請願書に署名してもらい、区議会に申請し、それによって渋谷区は、1987年(昭和六十二年)4月に都市整備課を設置することになったのですが、それまでは同潤会アパートの住民組織(町会)である「親隣会」と周辺の町会との関係は良いものではありませんでした。

『代官山再開発物語』には、「代官山アパート周辺の町会同士の関係も当時、悪化していた。代官山地区はもともと一つの町会としてまとまっていたが、戦後まもなく代官山アパートの親隣会、代官山親交会、代官山町会に分かれた。その後、代官山アパート内の西側にあった氷川神社の神酒所の撤去問題で三つの町会の間で意見が対立し、以来その関係がこじれるようになった。区議会へもそれぞれの町会から一人ずつ送り出すようになって、三つの町会はその「縄張り」みたいなものとなってしまっていたのである。」と書かれています。

※現在の町会の区割りは、概ね1932年(昭和7年)に渋谷区が創設された時点で設定された町丁目に準じています。
 代官山親交会は八幡通三丁目に該当する区域、代官山町会は同潤会代官山アパートを除く代官山町に該当する区域となっています

また、再開発組合の理事長として代官山アパートの建て替えを実現した谷口壮一郎も「私が代官山アパートに入居したのは昭和四十年(1965年)ですが、確かによそからここに入居してくると、居心地は良くなかった。アパートの住民には、エリート然とした人が多かったですしね。特有の閉鎖性が感じられて、悪く言えば代官山アパートは『エリートの巣窟』でした。親隣会はサラリーマンが多い団地の町会だから、周りの町会と一緒に何かを協力してやろうなんて考えない人たちばかりでした。」と語っています。
(元首相の福田赳夫も代官山アパートの住人だったことがあると云われています)

また代官山アパートには、銭湯、食堂、児童公園、住民組織である親隣会が経営する幼稚園、住民によって組織された代官山生活協同組合に加えて理髪店などの若干の店舗もあり、日常品の購入には御用聞きを利用している人も多く、広場には定期的に野菜の移動販売車がやって来て商売もしていました。したがって、代官山アパートはひとつの地域社会として自立できていたということも、周囲との関係が希薄になった原因のひとつと考えられます。

そこで谷口氏は、「迷惑をかけるのは私たちのほうなのだから、迷惑をこうむる周囲の人の立場でものを考える姿勢がなければならないのはもちろんです。さらに、代官山アパートの建て替え事業は住民のみならず、近隣に住む方々にとっても良い再開発事業とならなければ、成功はあり得ません。」という意識を持ち、近隣住民に対する協力要請をデベロッパー任せにすることなく、積極的に様々な機会を捉えて近隣の町会との交流を重ねることによって、地域のあらゆる問題に関して忌憚のない意見交換ができるような素地をつくりあげる努力を重ねたようです。

その結果として、代官山地区市街地再開発準備組合の設立当初は、再開発事業に対して冷淡な反応だった恵比寿地区町会連合会会長で渋谷区町会連合会副会長でもあった渋谷区名誉区民の山下廣光の協力を得ることができたことにより、恵比寿地区町会連合会の請願によって渋谷区役所内に都市整備課が設置され、代官山アパートの建て替えが都市計画決定に基づく第一種市街地再開発事業に認定されることになりました。

代官山地区市街地再開発組合の設立

『代官山再開発物語』には、「昭和五十八年(1983年)六月に準備組合が設立された後、同年十月に再開発事業のコンサルタント業務を担当する日本設計が参画、翌五十九年の十二月に大手ゼネコン、不動産会社、信託銀行など計六社が事業協力会社として参加するようになった。平成元年(1989年)一月には新たにNTT(NTTファシリティーズ)がコンサルタントおよび設計業務に参画した。」という記載があります。

1992年に代官山住民によって撮影された動画には、コンサルタントとして株式会社日本設計事務所、日本電信電話株式会社(NTT)、事業協力会社として鹿島建設、新日本製鐵、大成建設、三井信託銀行、三井不動産の名前が確認できます。

ビデオ『代官山は今』

1990年(平成二年)12月に渋谷区は、都市計画決定をおこないました。しかし、1990年(平成二年)3月27日に大蔵省銀行局長は「不動産融資総量規制」の通達をおこない、以後「金融機関が融資証明書を発行しておきながら融資しない」あるいは、「建設工事途中に融資を打ち切る」といったことが政策的・意図的に全国規模で実施され始めました。そのため、土地価格の急速な下落が始まり、そして、いわゆる「バブル経済崩壊」が訪れます。
代官山地区市街地再開発事業では、その建設費などの事業費は新しく建設されるビルの保留床売却による収入と、国と渋谷区からの補助金によって賄われることになっていました。そのため、不動産価格の暴落による事業採算性の悪化が見込まれるようになると、1993年(平成五年)3月までに新日本製鐵、三井信託銀行、三井不動産が再開発事業から撤退しました。

準備組合は、撤退を表明した、それまでは事業協力会社のリーダー格だった会社に、その会社が事業に参加できる事業計画の見直し案の提出を求めていましたが、1993年(平成五年)5月25日に提示された見直し案は、到底受け入れがたいものだったため、再開発事業の一時凍結を覚悟せざるを得ないことになりました。しかし奇跡的にもその同じ日に、渋谷区から東京電力が再開発事業への参加を希望しているという連絡が入りました。
これにより、商業床として売却することを予定していた地下の保留床部分に、建設予算約200億円で、東京電力が渋谷区用の拠点変電所を建設することになり、再開発事業は採算の目処が立つことになったわけです。
※結果的には、東京電力は変電所を整備することなく、別の用途で現在は利用されています。

こうして、1994年(平成六年)6月に代官山地区市街地再開発組合が設立され、代官山地区第一種市街地再開発事業はスタートしました。

権利変換計画の認可

前述のように「代官山地区が行政から都市計画決定を受ければ、土地・建物という財産を提供する代わりに、(建て替えのための)代官山アパート住民の金銭的負担は実質的になくなる。」ということになります。
市街地再開発事業に伴い権利変換手続きによって権利床を取得する場合は、従前資産の譲渡がなかったものとみなすために所得税や法人税はかかりません。また固定資産税も一定期間減額されます。
『同潤会のアパートメントとその時代』によれば、敗戦後の1951年(昭和26年)に東京都が示した代官山アパートの払い下げにおける建物価格の総額は12,693,151円で、敷地の総額は7,804,352円。敷地の坪数は5,966.63坪となっていますから、土地建物合計の坪単価は3,435.36円ということになります。※土地建物の合計金額:20,497,503円
一方で、代官山地区第一種市街地再開発事業の資料によれば、敷地総面積は6,693.58坪(22,088.82㎡)で、その内の宅地面積は5,230.9坪(17,262㎡)で延床面積は3,644.34坪(12,026.32㎡)となっていますので、この数字を当てはめて計算してみると、建物については坪単価3,557.06円、宅地については坪単価1,491.97円ということになります。

様々なタイプの住戸があった代官山アパートでしたが、その中でも比較的戸数が多い「6帖1間4帖半2間」の住戸の場合、床面積は約13坪で庭の部分を足した敷地面積を15.5坪として考えると、払い下げ時(1957年)の建物価格は約46,000円、土地価格は約23,000円で、合計でも69,000円ということになります。(実際は、4戸で1棟の2階建て住棟であれば、共有する敷地の持ち分はもっと少ない面積になっています。したがって払い下げ時に支払った金額はもっと少なかったはずだと考えられます)
一方で、再開発準備組合は再開発の同意を権利者から得るために、再開発後の取得面積を従前の居住面積の1.3倍、土地面積の持ち分の1.5倍に設定し、それを保証することにしていました。したがって、このようなタイプの住戸を所有していた人は、再開発後には20坪近くの居住面積の住戸をいっさいの自己負担無しに手に入れることが出来たと考えられます。

『幻景の東京 大正・昭和の街と住い』柏書房 1998年

2021年現在での、代官山アドレス ザ・タワー棟の中古分譲価格を調べてみると、凡そその坪単価は6百万円台の後半になっているようです。払い下げ時の土地建物合計の坪単価が約3,400円程度だったとすると、その資産価値は凡そ2,000倍になっている計算になります。
※完成時の分譲価格の平均価格は1億1千万だったそうです。

この資産価値の上昇は、1970年代以降のヒルサイドテラスの開発や商業地化など、様々な要因によって代官山のブランド価値が高まったことの恩恵を受けた結果であると考えられます。しかし同時に、その価値上昇をもたらした要因のひとつとして、ノスタルジックな独特の雰囲気を醸し出す、閑静で緑豊かな代官山アパートという開かれた大きな場所があったということも重要な一因だったと考えられます。

代官山地区市街地再開発組合が設立されると、1995年(平成七年)8月から権利変換への同意取得に向けた活動が開始されました。622人の権利者のうちの約7割からはスムーズに同意を得ることが出来ましたが、残りの人々から同意を得るのは容易なことではなかったようです。
1983年に準備組合が設立されてから1995年に権利変換の同意交渉が始るまでには12年間が経過しています。その間に代官山の地価は上昇を続けており、投機目的で住戸を取得した不動産会社もあったようです。また、渋谷と中目黒を結ぶ幹線道路である八幡通りに面した3階建て住棟の権利者の中には、2階建て住棟の居住者と比べて、計算上は住棟の敷地面積が同一の場合には土地面積の持ち分が2/3になってしまうこともあり、個人的な利益追求のために権利変換における従前資産評価額はもっと高く算定できるはずだと主張し同意を拒む人もいたようです。

『代官山再開発物語』には、「表通り派」というグループについて「代官山アパートの西側沿いに幅員十五メートルの八幡通りが走っているが、それに面する住棟の住民たちは、自分たちの土地の価値は評価額よりももっとあると強硬に主張した。彼らの主張の根拠は、最近、通りを挟んだ土地が坪五千万円で売れたという事実であった。」と書かれています。

そこで再開発組合は、1996年(平成八年)2月12日に全体説明会を開催し、「全員同意型」の権利変換から強制執行をおこなうことが出来る都市再開発法111条の「地上権非設定型」の権利変換方式への変更を提案し大多数の賛同を得たことから、その後、111条による権利変換方式で権利変換計画の認可を受けることを決定しました。これにより、1996年(平成八年)7月に権利変換計画は認可されました。

最終的には1名の権利者と裁判で争うことになりましたが、600名を超える権利者の合意に基づく再開発事業が実現したということは極めて稀なケースであると云えるでしょう。また、近隣住民の日照権などに対する補償費などの近隣対策費をほとんど支出することなく事業をおこなうことが出来たということも、高層ビルの建設においては稀なことであったと考えられます。これは、再開発組合および事業協力会社が権利者、近隣住民などの関係者に対して常に対立を避け同意を得ることを最優先にして対処してきた結果であると考えられます。

このような経緯から、新たに建設された代官山アドレスの管理規約の冒頭には「基本理念」として、「本代官山アドレスは、東京都渋谷区代官山町17番地に所在した旧同潤会アパート所有者の永年に亘る建替え構想と、渋谷区による本地区を中心とした周辺地域活性化とその発展を図る再開発構想が一体となって実現した、東京都市計画代官山地区第一種市街地再開発事業として建設及び整備された複合施設である。このため、当代官山アドレスには、住宅及び住戸用諸施設のみならず業務用及び大小店舗用階層と附属施設並びに地下変電所のほか公益広場、区民体育施設、公園、地区集会施設、歩道橋及び歩道状空地等の地区住民を含む一般市民用の諸施設を備え、これらを広く一般市民の利用に供することにより地域住民への貢献とコミュニティの発展に寄与するものである。」と書かれています。

そして『代官山再開発物語』の末尾には、代官山アドレスの敷地内に「碑 街づくりにかかわった人々の英知と努力を讃え地域の方々に感謝しながら、この町に心かよいあうコミュニティがはぐくまれることを願う」と書かれた碑文が設置されたと記載されています。

新たに建設された代官山アドレスの敷地内には株式会社アートフロントギャラリー(北川フラム)のキュレーションによるパブリックアート20作品が設置されましたが、代官山通りと八幡通りの交差点に設置された、ピオトル・コヴァルスキー作の「エレクトリックひまわり」は、常に太陽の方向(周囲)に顔を向けて咲くひまわりを作品のモチーフとすることによって、この再開発事業が周辺住民の理解によって実現したことを忘れず、永続的に代官山アドレスが周辺街区の人々に開かれた場所であり、周辺街区の人々との良好な関係を培ってゆく決意の表明を意図して設置されました。

2014年6月

しかしながら、この作品は上部に太陽光パネルが設置されており、蓄電された電気によって、夜間は花弁に付けられた電球が歩道を照らす仕組みになっていますが、残念なことに、代官山アドレス管理組合はそのメンテナンス費用が高額であることを理由に補修はおこなわないことを決定したので、現在は点灯しなくなってしまっています。

2010年1月

代官山アドレスは総戸数501戸で、そのうちの14戸は区営住宅。事業参加ゼネコンが販売するための保留床が214戸で、代官山アパート住人の居住用として用意された権利床は273戸です。前述のように「建て替えが議論されるようになった昭和五十年代半ばには、全住戸(337戸)の半分以上は貸家で、しかもそのうち三十軒ぐらいは空き家の状態だった」ということですので、旧住民である所有権者の中には当初から建て替えられた代官山アドレスには入居せず、賃貸住宅または商業床として資産運用するつもりだった人も相当数いただろうと想像できます。そう考えると、代官山アドレスに入居した人の半数以上はこの再開発事業の経緯を全く知らない人々だと考えられます。

したがって結局のところ、20年間もの間心血を注いで代官山アパートの建て替えに尽力した再開発組合の理事らの心情は、多くの代官山アドレスの入居者に共有されることもなく、その象徴とも呼べる「エレクトリックひまわり」は無残なその姿を晒すこととなっています。そして、どのような経緯があったのかは知る由もないですが、再開発事業を牽引してきた再開発組合理事長の谷口壮一郎氏は、代官山アドレス完成の数年後には代官山アドレスに保有していた全ての資産を売却して転出してしまいました。

同潤会代官山アパートの建て替えは、600人もの権利者の合意を得て設立された住民主体の再開発組合が、包含される地域共同体の容認を得て施行したという画期的な再開発事業ではありましたが、その根底に存在した理念が必ずしも期待通りに実体化できるものでもないというところは、このような再開発事業の難しさかもしれません。

代官山アドレスの完成まで

1996年(平成八年)8月に代官山アパートの除却工事は開始されました。
それに先立ち、1996年8月8日~12日の期間、アートフロントギャラリーの企画運営により「さよなら同潤会代官山アパート展-再生と記憶-」が開催されました。これは、住民の退去が完了した後に代官山アパートの敷地内に現代アート作品を展示するという企画でしたが、同潤会代官山アパートが消えてしまうことを惜しむ人々に対して、最後のお別れの機会を提供するものでもありました。

写真展『代官山時間旅行』

また、『代官山再開発物語』には「代官山アパートの除去が始って間もない平成八年九月、地元恵比寿地区十六町会は渋谷消防署の協力を得て、代官山アパートの一室を実際に燃やすという大規模な消火訓練を行った。参加者数は一千人を数えた。もちろん、組合事務局が中心となってこれを企画したのだが、それはアパート住民と近隣住民との絆づくりのイベントとして機能した。」と記載されています。同書ではこのことを「この経験が住民の間にコミュニティ意識を強めたことを改めて再評価すべきだと思う。」と評価しています。
その他にも、「代官山ステキ発見フォトコンテスト」などといった周辺住民が参加するイベントが代官山アパートの解体に合わせて企画され実施されました。

前述の通り、この再開発事業の実施にあたっては「近隣住民の日照権などに対する補償費などの近隣対策費をほとんど支出することなく事業をおこなうことが出来た」ということではありましたが、上記のような周辺住民のためのイベント開催に対しては、再開発組合は積極的に費用の提供をおこないました。このように、この再開発事業が地域コミュニティに貢献するものであるということを印象づけることによって、周辺住民の理解と容認を得ることが出来たことは、この地域内に分断を生じさせることもなく、事業がスムーズに実行できた大きな要因だったと考えられます。

代官山アドレスの完成

代官山地区第一種市街地再開発事業の事業協力会社であった鹿島建設公表の資料によれば、

代官山地区市街地再開発事業施設建築物新築工事
<工事概要>
場所 東京都渋谷区代官山町17番地ほか
発注者 代官山地区市街地再開発組合
設計 日本設計・NTT
ランドスケープ基本計画 ロバート・ザイオン
規模 敷地面積17,262㎡
住宅棟:鉄骨鉄筋コンクリート造 地下4階地上36階ほか計5棟500戸
商業棟:鉄骨鉄筋コンクリート造 地下3階地上4階
その他:公益施設,拠点変電所,駐車場等
延べ96,778㎡
工期 1996年8月~2000年8月

となっています。

配棟計画はこのようになっています。

1983年(昭和58年)に代官山地区市街地再開発準備組合が発足した当初に計画されていたプランはこのようなものでした。

同潤会再開発案 平面図

同潤会再開発案 模型

1993年(平成五年)に、それまで準備組合に参加していた事業協力会社6社のうち4社が撤退する頃に計画されていたプランはこのようなものでした。

『同潤会のアパートメントとその時代』

最終的な配棟計画に近いものであったことがわかりますが、保留床に占める商業床の比率がかなり高いものになっていました。

この写真は、代官山アパートが解体される直前の1996年頃のものだと思われます。

『代官山再開発物語』

この航空写真からわかるように、駅至近の場所にこれだけのボリュームの緑に覆われた空間があったということは、代官山というまちのイメージ形成において極めて重要な役割を果たしていたと考えても間違いのないことだと思われます。

『同潤会のアパートメントとその時代』

秋の代官山食堂前の広場の写真だと思われます。今考えれば、ここが渋谷から1つ目の駅のすぐそばの風景だとは信じ難いことでしょう。人通りもまばらなこのメインストリートに漂う静謐な空気感が多くの人々に愛されていました。

代官山アドレス完成後

前述の通り、代官山地区市街地再開発準備組合の設立当初の段階では、渋谷区役所内には市街地再開発を担当する部署はありませんでした。準備組合の要請に応じて渋谷区役所内に都市整備課が設置され、後に市街地再開発地区が都市計画決定され、代官山アパートの建て替えが第一種市街地再開発事業に認定されることになりました。このとき渋谷区が当該地区において構想した都市計画とは、この市街地再開発によって恵比寿の五差路から八幡通りまでの特別区道第474号路線上にある東急東横線の踏切を高架橋で横断することによって解消し、同時にこの踏切から八幡通りまでの区間の拡幅をおこなうこと。公共駐車場整備を敷地内で実現すること。そして代官山駅利用者のための通路を整備することなどが計画されました。
しかしながら、東急電鉄との連携が上手くおこなわれなかったために、後に東横線の地下化が決定したことから踏切を横断する高架橋の整備は取り止めとなり、また、代官山アドレスの建設に合わせて代官山アドレス内の広場(アドレスプラザ)が代官山駅の駅前広場として機能するように駅舎を改造することもなかったために、アドレスプラザは代官山駅利用者にとっての主たる動線上に位置するものにはなりませんでした。

人道橋 2014年6月

アドレスプラザ 2014年6月

駅舎の構造上、駅利用者が改札を出たときにアドレスプラザが視界に入ることはなく、降車乗客の主たる動線もアドレスプラザに向かっていないために、代官山アドレスの商業店舗は十分な通行客数を期待することが出来ない状態になっています。
しかしその一方で、駅と駅前広場が一体になっているというような陳腐な空間構成になっていないことが、駅前に独特の趣をもたせており、それがひとつの「代官山らしさ」の表象になっていると見ることも出来ます。

代官山駅前 2020年11月

代官山アドレスの、鹿島建設が保留床として取得した商業床はディセ(17 dixsept)と命名されました。フランス語で数字の17を意味しますが、同潤会アパートの住所が代官山町17番地だったことに由来します。一方で、旧住民の中には権利床を住戸ではなく商業床で取得したい人々もいました。そのような商業床の区画はアドレスプロムナードと命名されました。
その配置と開業当初の店舗名は以下のフロアマップで確認することが出来ます。

Daikanyama ADDRESS Shopping Guide

当然保留床は売却することが前提でしたので、ディセは当時商業施設の運営は初めての、東京証券取引所などのビルを保有していた不動産会社平和不動産に売却されました。様々な要因によるとは思いますが、開業当初のテナントの多くは2~3年以内に撤退しました。(その後ディセは、2015年(平成27年)に不動産投資法人に売却されました)

また、前述の通り代官山アドレス内には多数のパブリックアート作品が設置されましたが、そのいくつかは以下のようなものです。

『代官山再開発物語』には、「第一期分譲では、最高で三百三十一倍、平均で三十倍という競争倍率で即日完売。 <中略> 代官山アドレスの来場件数八千人で、これは平成十一年に首都圏で分譲されたマンションの中ではトップである。一戸当たりの平均価格は一億一千万円。」と書かれています。このことからも代官山アドレスの完成は極めて話題性がある事象だったことがわかります。

また、フジテレビの「月9」枠で2000年10月9日から12月18日の期間に放送された、松嶋菜々子主演のラブコメディー『やまとなでしこ』は、当時の世帯全話平均視聴率(26.4%)および、世帯最高平均視聴率(34.2%)で、2000年以降のフジテレビ系の恋愛ドラマでは歴代トップの番組でしたが、その主要なロケ地として代官山アドレスが使われました。

『やまとなでしこ』

このような効果もあって、代官山の来街者数も2000年後半に急激に増加しました。下は東急東横線代官山駅の降車人員数の推移を示したものですが、代官山アドレス完成前の1999年と完成翌年の2001年を比較してみると約1.5倍に増加しています。しかし、2001年以降は減少が続き、2001年から2005年の5年間では27.5%も減少し、代官山アドレスの話題性は一過性のものだったということがわかります。

代官山駅降車客数 1991-2005

代官山地区市街地再開発組合は、このようなことから代官山アドレスいう施設自体にロケ地としての価値があることを認識しました。そこで、管理規約の「敷地及び共用部分等の一時使用に関する規則」で第三者の一時使用に係る料金を区分所有者・占有者等の倍額に設定し、そこから得た収益を再開発組合がおこなってきた周辺住民のためのイベント開催などの地域共同体がおこなう活動の支援に充当することを意図しました。しかし、代官山アドレスの完成以後、代官山アドレス管理組合が資金援助する形で地域イベントが実施されたという記録はみつかりません。

代官山アドレス効果

同潤会代官山アパートの住人の居住環境改善が主たる目的であった代官山地区第一種市街地再開発事業は、代官山が不動産投資先として高いポテンシャルを有していることを示す結果となりました。そのため、かつてはお屋敷町だったために、分割されずにまとまった広さで残され利用されていた敷地も多数あり、それらが次々に再開発されてゆく結果となりました。
同時に、小規模な地付きの商店や住宅などのテナントビルへの建物更新も加速し、代官山の商業地化が促進されることともなりました。
そういった意味で、代官山アドレス以前と代官山アドレス以後では、明らかに代官山というまちの趣は変化したと考えられます。

代官山の歴史シリーズ

1.江戸時代の代官山
2.内記坂の謎
3.明治時代の代官山の土地利用
4.西郷家と岩倉家
5.てんぐ坂の由来とたばこ王・岩谷松平について
6.西郷従道邸のこと
7.三田用水分水路の水車と明治・大正時代の代官山の産業
8.代官山に東横線が通るまで
9.昭和初期の代官山-お屋敷町の形成-
10.大正時代の都市計画と昭和初期の代官山の道路事情
11.同潤会代官山アパートメントの完成
12.敗戦後の代官山
13.代官山集合住居計画にはじまる1970年代の代官山
14.雑誌記事で辿る1980・90年代の代官山
15.同潤会代官山アパートメントの記憶と代官山地区第一種市街地再開発事業

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