21世紀を迎えた代官山は…

FOR STUDY

代官山では、1990年代に急速に来街者数が増加しましたが、2000年8月の代官山アドレスの誕生をピークとして、それ以後は減少が続いています。代官山と認識される地域は、都市計画上の用途地域としては、駒沢通りの沿道を除いては全てが住居専用地域若しくは住居地域ですが、1980年代以降の著しい商業床の増加により、来街者の視線では代官山が住宅地であるという認識はほとんど無くなっているのではないかと考えられます。ある時期においては、住居と店舗がバランス良く混在しているところが代官山の魅力であると云われていましたが、その良好なバランスが崩れただけでなく、その質的な側面においても魅力を失いつつあるのではないかと懸念されます。


来街者数の推移

1990年の東急東横線代官山駅の普通乗車券利用による1日平均の降車人数は3,860人でしたが、1999年にはそれが8,395人に増加しています。年平均の増加率としては11.7%の増加ということになります。しかし、1997年から1999年の期間は、増加率が停滞していましたので、1990年から1996年の7年間について見てみると、年平均の増加率は15.6%ということになります。
言い換えれば、たった7年間で来街者数が2倍以上に増加したということです。

この図は、1975年から2019年の期間の代官山駅の普通乗車券利用による年別降車人数を折れ線グラフにしたものです。対前年増加率が高かった年には、その増加率を表示しています。
1970年代中頃から1990年代中頃までの間は、徐々に降車人数の対前年増加率が高まってきたことがわかります。
特に、1978年、1983年、1991年、1993年の増加率が高くなっていますが、その明確な原因を特定することは出来ていません。
しかしながら、「雑誌記事で辿る1980・90年代の代官山」で記載したように、1990年代に入ると、それまでは「女性が雑貨やキッチュな小物をさがす街」というイメージだったことに加えて「少年たちのショッピングタウン」という側面が付加されたことによって来街者数の増加率が高まったと推察されます。

1990年代以降に開業した事業者の意識

産業能率大学は代官山キャンパスを2005年に開設するにあたり、経営学部の科目『代官山学』の基礎的データ取集を目的として、代官山の商業事業者を対象に「第1回 代官山調査 -代官山エリアの商業・事業者アンケート-」を実施しました。
このアンケート調査は251事業者に対して実施されましたが、その内訳を見ると1970年代までに開業した事業者数は23、1980年代に開業した事業者は25で、1990年代の79、2000年代の124に比してサンプル数が非常に少ないので、主として1990年代に開業した事業者と2000年代に開業した事業者の比較に着目してみます。


産業能率大-第1回代官山調査-2004年11月-各業種の開業年

この調査では事業者に対して、代官山への出店に際して「代官山の魅力やブランド力を意識したかどうか」を尋ねています。


産業能率大-第1回代官山調査-2004年11月-開業年×代官山の魅力やブランド力

1990年代、2000年代のどちらで出店した事業者も「強く意識した」と「少し意識した」の合計は60%を超えていて大きな差は見られません。しかし1980年代に出店した事業者の場合は約40%であるということから考察すると、商業事業者の意識における代官山のブランド力の高さは1990年代になって高まってきたものと考えられます。


産業能率大-第1回代官山調査-2004年11月-開業年×出店理由

代官山に出店した理由については、1990年代に開業した事業者と2000年代に開業した事業者のどちらも、その最も大きい理由は「代官山の環境が良いから」になっています。しかし1990年代開業の事業者の50%以上がこの理由を挙げたのに対して2000年代開業の事業者は30%台に留まっています。
2000年代開業の事業者では、次に多かった理由として「自分の可能性を追求するため」ですが、こちらでは2000年代開業の事業者が30%台であるのに対して1990年代開業の事業者は10%台に留まっています。同様に「新しいブランドと新しいマーケティングにチャレンジするため」や「売り上げ拡大が期待できるから」といった理由が、1990年代開業の事業者と比べると2000年代開業の事業者ではかなり高くなっています。
このことから、2000年代になると代官山には大きなビジネスチャンスがあるという認識が広まったことによって、いっそう店舗の出店が増加したと推察されます。


産業能率大-第1回代官山調査-2004年11月-開業年×代官山の魅力やブランド力

代官山への出店理由としては「代官山の環境が良いから」が最も多くなっていましたが、「貴方にとって代官山の魅力は何でしょうか?」という問いに対しては、「街の雰囲気がお洒落」が最も多く、次いで「お洒落で個性的な店が多い」という回答が多くなっていました。このどちらの回答においても、2000年代開業の事業者の方が1990年代開業の事業者に比べてこの回答を選んだ割合は高くなっています。
その一方で、1990年代開業の事業者の方が2000年代開業の事業者よりも高い割合で選ばれた回答には、「大人の街の雰囲気がする」、「感度の高いお客様が多い」、「代官山ヒルサイドテラスの存在」などがありますが、「大人の街の雰囲気がする」と「代官山ヒルサイドテラスの存在」については、2000年代開業の事業者が選んだ割合は1990年代開業の事業者の半分程度にまで落ち込んでいます。
この問いに対する回答の選択肢には「街としての集客力が期待できるから」といった回答は設定されていませんでしたが、もしそのような選択肢があったとしたら、それが最も多く選ばれたかもしれません。


産業能率大-第1回代官山調査-2004年11月-開業年×代官山らしい所

同時に「貴方が一番、代官山らしいと感じる所はどこでしょうか?」という問いに対して、1990年代以前に開業した事業者の半数以上は「旧山手通り」と回答しているのに対して、2000年代開業の事業者は40%以下になっています。同様に「代官山ヒルサイドテラス」の割合も大きく減少しています。それに対して、「八幡通り」、「キャッスルストリート」の割合が大幅に増加しています。
このふたつの通りは、1980年代以降急速に店舗集積が高まった場所です。このことからも、2000年代開業の事業者にとっての「代官山らしさ」を感じる場所とは、商業空間が集積している場所であると認識されているように思われます。

このことは「雑誌記事で辿る1980・90年代の代官山」でも記載したように、1980年代中頃から代官山に出店する店舗数は着実に増加し続け、特に1990年代の中頃以降にその勢いが急上昇したことによると考えられます。


ゼンリン住宅地図 2001年

これは2001年発行のゼンリン住宅地図です。1991年発行のゼンリン住宅地図と比較し、建て替えられたと考えられる建物に色を付けています。青色で示した建物は、建物内に商業床を有するものです。1990年代の10年間でかなりの商業床が増えたことが確認できます。
これらの建物には、しもた屋(廃業した商店)が建替えられてテナントビルになったものや、比較的広い敷地を有していた戸建て住宅がマンションに建て替えられる際に、下層階を商業床にして建設されたものが多く含まれます。


GINZA 2002年5月号

この地図は、『GINZA 2002年5月号 -完全無敵のスーパー代官山ストーリー-』に掲載されている「代官山パワーMAP」です。1997年に代官山東急アパートメント建て替え用地の暫定利用として「代官山プラース」が開業し、2000年には「代官山アドレス ディセ」と「ラ・フェンテ代官山」が開業するなど、八幡通り沿いに複数のショッピングモールが誕生したために八幡通りが拡大表示されています。
この号では236店舗が紹介されていますが、代官山に立地する全ての店舗が網羅されているわけではありません。
同じ年(2002年)に地域の団体である代官山ステキ委員会が発行した『代官山ステキガイドブック’02-’03』には、273店舗の物販店と90店舗の飲食店、77店舗の美容系店舗が掲載されています。合計すると440店舗に及びます。

このように代官山の商業集積の密度が高まったことによって、事業者目線での代官山の魅力や価値といったものは、2000年頃を転換点として大きく変化したのではないかと考えられます。

特に、1995年以降に「代官山発」というイメージを伴った超人気ブランドが複数誕生したことは、代官山がファッショナブルな街であるという印象を強く発信することに大きく貢献したと考えられます。

代官山人気を牽引した代表的店舗


JJ 1996年8月号・GINZA 2000年7月号

aquagirlは、1980年代後半に渋谷キャットストリートで人気セレクトショップを経営していた酒寄隆夫が負債を抱えて一旦業界から退いた後に、1995年3月26日に開業したセレクトショップです。aquagirlが2019年2月28日に閉店した時点では、株式会社ワールドが運営するブランドでしたが、開業当初からワールドが経営していたのかどうかは不明です。(ワールドはaquagirlを多店舗展開していましたが、2020年8月にはaquagirlの事業自体を終了しました)
開業当時、ニューヨークで注目を集めるようになっていたトッド・オールダムやアナ・スイ、ブランドをスタートさせたばかりのラフ・シモンズなど、最先端のファッションブランドを取り揃えていました。
1996年にはメンズショップとしてThe Man aqua girl lovedも近接地に開業しましたが、こちらは早々に閉店したためにある意味で伝説的なショップになっています。


GINZA 2000年7月号

COCUEは、1996年に小杉正佳が設立したブランドで、その年に代官山に1号店を開業しました。(株式会社コキュは1987年に設立されています)
2005年に建替えられる以前の、代官山プラザアネックスビルの地下にあった薄暗い商店街の一角の、13坪という小さなスペースでCOCUEはスタートしましたが、1坪当たりの月間売り上げが600万円を超えていると噂されるほどの人気店となり、2000年には代官山エリア内に4店舗(6フロア)を展開するほどに成長しました。
これらの店舗では、ベトナム、カンボジア、ミャンマーなど東南アジア諸国で製造されたウェアや雑貨を販売していましたが、アジアンテイストという、それまでには無かった切り口がキュートだということで人気を博したようです。
しかし、開業当初からの所得隠しによる脱税が東京国税局によって2001年に告発され、小杉正佳は事業を株式会社ワールドに売却しました。ワールドはその後、さらに多店舗展開を図ったようですが、事業的に成功することは無く、早々にブランドは消滅したようです。


GINZA 2002年5月号

GRACE CONTINENTALは、株式会社アイランドが創設したブランドで、1997年9月に1号店を裏代官山と呼ばれるような鴬谷町に開業しました。開業当初は取扱い商品の半分が輸入品や海外ブランドのヴィンテージだったようですが、元々が生産管理代行の事業をおこなっていた強みを生かし、世界中から集めた素材を独自のデザイン力で製品化する製造直販アパレル企業として、ファッション業界関係者の間から人気が広がってゆきました。そのデザインテイストはクラシカルなヨーロッパテイストと表現できるかもしれません。
2000年代初頭には代官山エリア内でGRACE、GRACE EASTERN、GRACE CLASSの3ブランドを展開するようになり、その後も成長を続け多数の都市型商業施設に30店舗以上を展開するほどになりましたが結果的には経営破綻し、2009年12月に株式会社オンワードに買収されることになりました。


GINZA 2000年7月号

cherは、1995年に山崎嘉子と南リカが渋谷区神宮前6-16-2のマンション1階に小さな店舗を開業したところからスタートしましたが、1998年に八幡通り沿いの代官山東急アパートメントの向かいに出店しました。当時は代官山の知名度が急上昇していたためか、cherについては「代官山でスタートした」と紹介されている記事も散見されます。業態としてはセレクトショップですが、FRUIT CAKE(フルーツケイク)などのオリジナルブランドも開発していました。美脚ジーンズの先駆けであるEarl Jean(アールジーン)をいち早く取り扱ったことなどから注目を集め、西海岸テイストの品揃えが人気を博していました。
代官山エリア内では2回移転しましたが2017年3月31日に閉店し、中目黒にあった本社機能も鎌倉に移しましたが、鎌倉の店舗Cher Shoreも同年8月には閉店しました。


GINZA 2000年7月号・GINZA 2001年1月号

WRは、代官山(恵比寿西)に本社があった株式会社ホワイトルームが、アダム エ ロペの販売員からキャリアをスタートし、aquagirlの初代店長を務めた福田春美をショップディレクターに招聘し1998年にキャッスルストリートで開業しました。業態としてはセレクトショップとしてスタートしましたが、後にオリジナル商品も開発するようになり、福田春美はそのデザインも担当していました。開業から1年間で売り上げは飛躍的に向上し、代官山を代表する人気店のひとつとなり、その後多店舗展開するようになりました。一方福田春美は、デザインに集中する道を選び、雇用契約を変更し2006年にパリに移住しました。
そのような経緯を経て、2010年に株式会社ホワイトルームは11億円程度の負債を抱え民事再生手続きを開始することになり、企業再生案件を多数手がけているフリージアグループに事業は譲渡されました。


GINZA 2002年4月号

HeMは、1949年創業の秋葉原の皮革製品製造業者である株式会社鴻池製作所が、ドイツ人アートディレクターのMarkus Kiersztan(マーカス・キールステン)にロゴデザインを委託し開発したバッグブランドで、1999年にキャッスルストリートで1号店を開業しました。事業スタートともに爆発的な人気を博し、当時の代官山を代表するブランドのひとつとなりました。しかし、2002年には早々に代官山エリア内(恵比寿西2丁目)に移転し、4フロア構成のセレクトショップHUSKを開業し、新ブランドGlukの販売も開始しました。また同時に、HeMの移転跡地には、また別の新ブランドseciを出店させるといった多ブランド展開を開始しました。
その一方で、HeMのバッグデザインを担当していたデザインユニットgusvana3(ガスヴァーナ)は、2003年にオンリーショップのmit mitte(ミット・ミッテ)を裏代官山の鴬谷町で開業しました。
これらの店舗がいつ頃代官山から撤退したのかについては未調査ですが、いづれにしても2010年代には存在していなかったのではないかと考えられます。
その後どのような経緯があったかは不明ですが、2013年に株式会社鴻池製作所はHeMの事業を、同業者である株式会社協和に譲渡しました。そしてさらに2017年には伊藤忠商事株式会社がHeMのマスターライセンス権を取得しバッグ以外のアイテムも展開することを発表しました。

またこれらの店舗以外にも、現在でも圧倒的な人気を誇るストリートブランドであるSupremeの日本1号店やソフィア・コッポラのブランドショップであるHEAVEN27など、多くの人気ブランドショップがこの時期に代官山では開店しました。
併せて、「雑誌記事で辿る1980・90年代の代官山」でも取り上げたように、1980年代以降に代官山の知名度向上に貢献してきた店舗も多数存在しており、そのような状況が産業能率大学の事業者対象のアンケート調査結果に反映されていると考えることが出来そうです。
つまり、2000年以降の代官山では、さらに多くの「柳の下の二匹目のどじょう」を狙う事業者が進出してきたと考えられるわけです。

このようにして、多くのファッションメディアに代官山に出店した店舗、ブランドが露出するようになりましたが、その一方でテレビドラマや映画の撮影ロケーションとして代官山が使われるといった事態も1990年代から出現してきました。

ロケ地としての代官山


王様のレストラン

これは、フジテレビ系列の「水曜劇場」枠で1995年4月19日より7月5日まで放送された三谷幸喜脚本による『王様のレストラン』ですが、オープニングのタイトル画面に使われているのが、1978年に八幡通りから移転し店名をラ・アリタリアから改め開業したフレンチレストランのマダム・トキです。
ラ・アリタリアは、林勝彦・トキ子夫妻が経営していたイタリアンレストランですが、新居兼店舗を旧山手通り沿いの西郷橋脇に建て、勝彦氏が洋菓子店のラ・コロンバを、トキ子夫人がフレンチレストランのマダム・トキを始めたようです。同じ頃、勝彦氏は九段下の古い洋館でイタリアンレストランのラ・コロンバもスタートしたそうです。


Madame Toki 2014年5月10日

マダム・トキは、『王様のレストラン』だけでなく、和久井映見主演の『妹よ』(1994年)や中山美穂主演の『おいしい関係』(1996年)などのテレビドラマの舞台としても登場していたそうです。
一方、PINK HOUSEは1973年にデザイナー金子功が設立したブランドですが、1980年代はBIGIグループの傘下に入っていました。1990年には、旧山手通りに建設されたNEST代官山ビルに出店し、1995年に渋谷の井の頭通りにピンクハウスワールド渋谷店がオープンするまでの期間、代官山で営業していました。また、1992年には南平台に本社ビルを建設したこともあり、代官山を拠点とするファッションブランドのひとつであったと言えます。
その創業者である金子功はマダム・トキを非常に気に入っていたと云われており、商品撮影のロケーションとしても何度か使っていました。


an・an 1993年8月27日号

PINK HOUSEは、大川ひとみのMILKと共にロリータファッションの原点と云われていますが、ガーリー/ファンシーなテイストではなく、ノスタルジックでエレガントなデザインであり、当時の多くの大人女子を魅了したブランドでした。
※金子功自身は1994年に株式会社ピンクハウスを退社しています。

ところで、いわゆるトレンディドラマは、バブル経済崩壊直前の1988年に放送され、浅野温子、浅野ゆう子のW浅野主演で話題となった『抱きしめたい』がその先駆けになったと云われていますが、1990年代半ばには西郷山公園が多くのトレンディドラマのロケ地として使用されました。

その中でも、フジテレビ系列のいわゆる「月9」枠で1996年4月より7月まで放送された木村拓哉と山口智子の主演による『ロングバケーション』では、西郷山公園の他、Monsoon Cafe、Zero First Design、西郷橋など旧山手通り沿いの場所がロケ地として使用されました。


POPEYE 1997年7月25日号

Monsoon Cafe(モンスーンカフェ)は、長谷川実業株式会社(現株式会社グローバルダイニング)が1995年9月にバリ島のリゾートホテルをイメージしたデザインでオープンしたエスニックレストランですが、主人公の山口智子扮する葉山南の弟、葉山真二が店長として雇われていたクラブ「テアトロン」として使われました。

1985年に博報堂生活総合研究所が代官山を「一つ目小町で一番注目されている町」と評した頃から、三宿や代官山といった、どちらかと云えば不便な場所が、当時の業界人の隠れ家的遊び場として話題に上るようになっていたところに、1990年代に入ってからはトレンディドラマの舞台となる、まさに「トレンディな場所」として代官山は位置づけられることになりました。


DVD『代官山物語』

同じ頃、代官山で撮影するということに意味を持たせたと推察される映画が製作されました。タイトルも『代官山物語』です。
1980年代後半から1990年代にかけて流行した、いわゆる「渋谷系」と呼ばれる音楽ジャンルのCDジャケットのデザインを数多くおこなっていたアートディレクター信藤三雄が初の映画監督作品として制作したものです。
1981年にニューヨークのケーブルテレビジョンチャンネルのMTVが開局し、日本では1984年から『MTV:Music Television』の放送が始まり、日本の音楽作品のプロモーションにおいてもミュージックビデオクリップの重要性が高まってきていました。
そのような背景の中、この映画は1998年に劇場公開され、以後、信藤三雄が多数のミュージックビデオの制作を手掛けるようになる契機となった作品です。キャストのほとんどはミュージシャンでした。


DVD『代官山物語』

ロケ地は多くのトレンディドラマと異なり、そのほとんどが猿楽町や代官山町であり、主人公ヤジマックスのオフィスはキャッスルストリートにあるという設定でした。それは、当時の若者の認識における「旬な代官山」というのが、人気ショップが林立するキャッスルストリート界隈だったからという理由によるのかもしれません。
ちなみに、映画の最後に挿入されている第二話の予告編では、東横線を横断する人道橋で撮影されたシーンに代官山地区第一種市街地再開発事業の工事現場の様子が捉えられています。

さらに時代を下れば、2004年には深田恭子と土屋アンナ主演による映画『下妻物語』が公開されましたが、主人公の竜ヶ崎桃子が溺愛するロリータファッションのブランド「BABY, THE STARS SHINE BRIGHT」は代官山に実在したブランドであり、数多くのシーンが代官山で撮影されました。そして、その撮影場所の多くは、『代官山物語』と同じように猿楽町の路地や代官山町のキャッスルストリート界隈であり、トレンディドラマにおける代官山の見せ方とは異なる風景が代官山として描かれました。
この映画はヒット作となり、国内では156館で上映され、海外でも7か国で上映されました。したがって、この映画によって代官山というまちを知ったという人も相当数いたのではないかと推察されます。


DVD『下妻物語』

余談ではありますが、「BABY, THE STARS SHINE BRIGHT」は1998年に、代官山東急アパートメントの1階に1号店を出店しましたが、2012年末には閉店しました。(ブランド自体は2021年現在も日本全国に出店しているとともに、サンフランシスコにも支店があります)


BABY, THE STARS SHINE BRIGHT 代官山店閉店のご挨拶 – YouTube –
https://www.youtube.com/watch?v=hoGbVpGFxaQ

一般的にロリータファッションは原宿のものという認識が強いかもしれませんが、ひとつのルーツとして代官山にはピンクハウスが存在したというだけでなく、1973年にharappa Aが誕生して以降、1987年には女子中高生に根強い人気があったSWIMMERが、1994年にはMR.FRIENDLY DAILY STOREがオープンするなど、ファンシーでキュートなブランドの系譜も代官山には存在していました。
そして現在でも、瀧澤由紀子と三井リンダが創設し、1998年に代官山に第1号店を出店したロリータファッションブランドであるKatieは存続し続けています。

またさらに話を脱線させると、2002年にはコメディアンの藤井隆が、元はっぴいえんどで作詞家の松本隆プロデュースによるデビューアルバム『ロミオ道行』をリリースしましたが、その収録曲に作詞:松本隆、作曲:堀込高樹(キリンジ)のシティ・ポップ『代官山エレジー』があります。
「さっきの洋梨タルト
 甘酸っぱい息がした
 最後の最後のキスさ
 赤いバスが今君をさらうまで」
といったところが、代官山的景観描写かもしれませんが、いづれにしてもこの時代には、代官山が「旬」な街だったことを伺わせるものです。

話をロケ地としての代官山に戻すと、1990年代後半以降にテレビドラマや映画などという多くの人々が視聴するメディアで取り上げられる代官山は、2000年にフジテレビ「月9」枠で放送され大ヒットした松嶋菜々子主演の『やまとなでしこ』も含め、その主要なロケ場所は旧山手通り界隈からキャッスルストリート界隈へと変化しました。このことによって、代官山に来たことのない人々にとっての代官山イメージも変化したのではないかと推測されます。

このような時代背景の中、2000年8月に代官山アドレスが完成しました。

代官山アドレス誕生後の代官山


https://www.nihonsekkei.co.jp/projects/6228/

代官山アドレスの建設については「同潤会代官山アパートメントの記憶と代官山地区第一種市街地再開発事業」に詳細を記しましたが、この建物の完成時期が代官山におけるターニングポイントのひとつであることは間違いないものと考えています。

これは、東急東横線代官山駅の普通乗車券利用による降車人員数のグラフです。代官山アドレス完成の前年の降車人員数と翌年の降車人員数を比較するとほぼ1.5倍(1.493倍)になっています。1997年→1998年の伸び率が1.021倍、1998年→1999年の伸び率が1.026倍だったことから考えれば、この急激な来街者数の増加の原因が代官山アドレスの完成にあったと考えることは妥当であろうと思われます。

では、商業床面積が急速に増え、来街者数も急激に増加した代官山には、どのような変化が生じたでしょうか。
2000年前後の時代背景(マーケットトレンド)にも着目しながら事象を拾い上げてみます。

1970年代生まれの人々は出生者数が多かったことから「団塊ジュニア世代(第2次ベビーブーム世代)」と呼ばれ、消費市場においてその購買力が大きく期待されていました。この団塊ジュニア世代は、2000年前後に結婚適齢期(30歳前後)に達すると考えられ、ブライダル需要の高まりが見込まれることから、株式会社リクルートは1993年に結婚情報誌『ゼクシィ』を発行しました。


GINZA 2000年7月号

この動きに同調するかのように、代官山では株式会社ひらまつが1998年に代官山フォーラム地階にブライダルレストランとして「SYMPOSION」を開業しました。それに続いて2000年には代官山アドレスの完成とともにブライダルレストラン「ADDRESS DINING」が開業し、2001年には株式会社テイクアンドギブニーズが定期借地の敷地に「ARKANGEL」を建設し開業しました。また、2004年には株式会社ポジティブドリームパーソンズが、現在の代官山T-SITEの裏手に「GRANADA SUITE」を開業しました。
しかし、「ADDRESS DINING」は早々に閉店し、「SYMPOSION」も2006年には閉店し、2021年現在で営業を続けているのは「ARKANGEL」だけになっています。株式会社テイクアンドギブニーズについては、代官山での成功が起爆剤となり多店舗経営へと事業を拡大したようです。

団塊ジュニア世代の結婚適齢期到来とともに期待されたのはキッズ市場の拡大です。東京では1990年代の終わり頃から出生者数が微増しています。団塊ジュニア誕生期ほど大きな山になっていないのは少子化傾向によるものです。団塊ジュニア誕生期である1973年の合計特殊出生率(1人の女性が一生のあいだに産む子どもの数)が2.14だったのに対して、団塊ジュニア世代の出産適齢期である2005年(平成17年)の合計特殊出生率は1.26まで落ち込みましたがその後少し回復しています。
団塊ジュニアの親世代である団塊世代は、経済安定成長期の恩恵を受けて十分な資産形成が出来た世代です。そのため、数少ない孫のための高額な支出を厭わない傾向が見られ、団塊ジュニアの子供には両親・両祖父母の合計6人の財布(経済的なポケット)があるということから、この現象を「6ポケット」という言葉で表し、市場関係者の間では期待していました。

2003年に、英国マクラーレン社のベビーカートが日本に上陸すると、ベビーカートがブームになりました。これは、1990年以降に少子化が社会問題として取り上げられ、様々な国策が施行される中、子育てママの外出に対する支援が世間的な風潮になってきたことが要因のひとつとして考えられます。
早くから折り畳み式のベビーカーを開発していた日本の老舗企業「Aprica」は、2004年にヒルサイドテラスに出店しました。それに続き、2006年にはフランスの子供服ブランド「Bonpoint」の日本法人が旧山手通りに第一号店を出店し、同年9月には株式会社ユナイテッドアローズが「Cath Kidston」を猿楽町に出店しました。
そしてその後も代官山では、続々と子供関連商品の専門店が出店しました。
日本都市計画学会の論文『乳幼児を伴う外出行動の実態に関する研究』によれば、『iタウンページ』を利用した2008年の調査では、代官山・恵比寿地区の総小売店舗数に占める子供関連小売店舗の割合が3.3%で、自由が丘など11の調査対象地域の中で最も高い割合を占めていたようです。
このような変化によって代官山は、「ママとベビーの街」というイメージが形成されました。

その一方で、1990年代中頃からペット市場も大きく拡大してきました。

1996年に犬の登録件数が急激に増加しています。これに伴い家計に占めるペット関連支出も増加しました。キッズ市場と併せてペット市場も消費経済において大きな期待が寄せられた分野です。


GINZA 2000年7月号

『GINZA 2000年7月号 最強無敵の代官山ストーリー』では、代官山の店舗の看板犬を紹介する記事が掲載されています。これは、社会のペットブームが誌面に反映された結果だと考えられます。


出典不明・GINZA 2001年10月号

1997年にペットグッズの製造メーカーとして新宿で創業した有限会社デユウクリエイティブ(代表取締役社長 森田卓夫)は、2001年に増資し社名を株式会社ホットドッグに変更し、代官山で「Deco’s Dog Cafe」を開業しました。これは、ペット入店可のカフェで犬用のメニューや犬用のスイーツの販売などをおこなっていました。
この店を端緒として、代官山では「JUST DOG MARKET」、「Tree Dog Bakery」など、多数のペットグッズショップが開業しました。
このような変化によって、わざわざペットを車に乗せて代官山にやってきて、旧山手通りや西郷山公園などでこれ見よがしに犬の散歩をする人も増えたようです。このことによって代官山は、「ペットに優しい街」というイメージも形成されました。
しかしその後、「Deco’s Dog Cafe」は、2004年に田園調布に2号店の「田園茶房」を出店した後、2008年頃に閉店したのではないかと考えられ、「Tree Dog Bakery」も2011年には閉店しました。その他の、ブームに便乗して出店したと思しき店舗は軒並み消えてゆきました。

つまり、商業床面積が急激に増加した代官山では、まちの趣に共感してこの場所で起業することを決意したのではなく、市場のトレンドに乗った業態での事業展開を選択した事業者が、立地戦略上の検討の結果、街としての着目率の高さを期待して代官山に出店するというケースが圧倒的に増加したのではないかと考えられます。したがって、代官山以外の街でも同様の業態の店は増加し、まちの趣としての差異は失われることになるわけです。ひとことで言えば、代官山は陳腐化したということになります。

このことは、多数のブランドを展開している大手アパレル企業の店舗の増加によっても生じます。また、地方発のブランドが東京進出の橋頭保として代官山に出店するケースも増加しましたが、その一方で代官山発ということが強く認識されるブランドは出現しなくなりました。2000年以降は、代官山のユニークさ、個性といったものが急速に失われていったと言わざるを得ないように思われます。


共立女子短期大学生活科学科カラー&デザイン研究室ストリートファッションレポート 2001年

共立女子短期大学生活科学科カラー&デザイン研究室では、1994年から原宿、渋谷、銀座、代官山でストリートファッション調査を継続してきました。これは、2001年の渋谷、原宿、代官山のストリートスナップをまとめたものです。
これからもわかるように、2000年初頭はそれぞれの街を訪れる人々のファッションには明らかな差異が見られました。このことは、まちの趣、個性に大きな影響を与えています。「〇〇〇らしさ」が来街者の様相によって明確に印象付けられていました。


共立女子短期大学生活科学科カラー&デザイン研究室ストリートファッションレポート 2011年

これは、2011年の同じ街でのストリートスナップを集めたものです。明らかに、それぞれの街の差異が失われていることがわかります。
この原因として、インターネットの普及によってネットワーク社会が出現したことによって、人は場所に依存せずにネットワークを形成することが出来るようになり、以前は場所にコミュニティがあって、そのコミュニティから文化が生まれていたために街ごとの文化の差が極めて大きかったものが、現在はその差異は失われているという意見があります。
しかし、代官山から「代官山らしさ」が失われつつあるのは、それだけでなく、商業床の供給過剰、過度な商業地化にも原因があるように思えます。


東京都統計年鑑 私鉄の駅別乗降車人員 地下鉄の駅別乗降車人員

この記事の初めの方で、代官山駅の普通乗車券利用による降車人員数の推移を掲載しました。代官山アドレス完成の翌年をピークとして、それ以降は急速に減少してゆきました。
この表は、いくつかの駅における普通乗車券降車人員数の2000年と2010年の比較を列記したものです。
プラチナ通りを擁する白金台と麻布十番は約3倍の伸び率を示していますが、その他の商業地の色合いが強い駅では概ね20~30%程度の伸び率を示しています。また、住宅地の色合いが強い駅でも増加しています。広尾と下北沢は若干減少していますが、代官山ほどの減少率にはなっていません。


駅別500m商圏比較 -出店戦略情報局-

この表は、ウェブサイト「出店戦略情報局(https://storestrategy.jp/)」を利用して作成したものです。ここに示した数値は、2014年度の国勢調査のデータに基づいていると記載されています。
ちなみに2014年という年は、2008年のリーマンショック以降続いていた代官山駅乗降人員数の減少傾向が、2011年末に代官山T-SITEが開業したことによって微増に転じていた時期に当たります。
代官山駅から500m圏内に立地する小売業事業所数は400店となっています。この数は自由が丘に匹敵する数です。また、500m圏内の人口にもさほど大きな差は見られません。それに対して駅の普通乗車券利用による降車人員数を見比べてみると、自由が丘は代官山の約4倍の人数であることがわかります。単純に降車人員数の割合が来街者数の規模の差であると考えれば、代官山と比べて自由が丘の小売店は約4倍の集客の可能性があると考えることが出来ます。
1日当たりの普通乗車券降車人数を小売店数で割った数値で他の駅と比較してみても、代官山がどれだけ不利であるかがわかります。
代官山が28.2人であるのに対して、500m圏内の人口が最も多く、降車人数についてはほとんど差が無いながら、都内でも有数の商店街を擁している武蔵小山は48.3人となっています。つまり代官山は、住宅地並みの来街者数しか無いにもかかわらず商業地並みに店舗が集積している街であるということが出来ます。

そうであるにも関わらず何故多くのブランドショップが出店していたのかという理由については、2000年前後の時代においては、ファッションブランドの広告戦略の主軸が有名ファッション誌での露出にあり、相当量の資金を投入していたという背景があります。
一般的に、ファッション誌にタイアップ広告(記事広告)を掲出するためには広告料金として1ページ当たり100~200万円程度が必要であり、それにクリエイティブ関連の制作費を合わせると、1誌あたりでも毎月数百万円のコストがかかることになります。それと比較すれば、ブランディングのコストと割り切って代官山にアンテナショップを保有している方が安価な場合もあり、連日のようにファッション誌のスタイリストが徘徊していた時代ですから、撮影素材として商品が取り上げられる可能性も高かったため、店舗としては採算がとれていなくても出店している意味はあったという分析もあったようです。

しかし、資本規模の小さい事業体の多くは採算割れに耐えきれず、短期間で閉店するところが多かったようです。このことは、テナントの入れ替わりが短サイクル化することであり、貸店舗、テナントビルのオーナー側としては空き店舗の状態を極力避けたいと考えるために、テナント選考に注意を払うことなく、不動産仲介会社にリーシング業務を丸投げしてしまうことによって、テナントの質の劣化が進展すると考えられます。

このようなことは、多数の投資家が建物のオーナーになるという証券化された不動産にも当てはまります。


左:8953ビル 中:CUBE代官山 右:SS代官山

我が国では1996年から2001年にかけて金融ビッグバンと呼ばれる大規模な金融制度改革が実施されました。これに伴い2000年には不動産投資信託が解禁され、不動産の証券化が進展しました。
代官山でも、2003年に日本リテールファンド投資法人が12億3,500万円で代官山駅前の8953ビルを取得し、2004年には、オリックス不動産投資法人がCUBE代官山を24億3,500万円で取得、日本プライムリアルティ投資法人がSS代官山ビルを21億6,000万円で取得し、その後も次々と代官山エリア内の物件が不動産ファンドによって買収されるようになりました。
建物の所有権者である投資法人にとって、建物運用上の関心事は利回りだけであって、入居テナントの選考にあたって地域特性や地域の将来像に配慮してテナントを選考することはほとんどおこなわれません。そのために、まちの趣を阻害すると考えられるようなテナントが出店する事態も懸念されています。
また、不動産ファンドによって買収される建物はテナントビルだけでなく、マンションもその対象となっています。この傾向は現在も留まるところを知らず、代官山というまちが投資(投機)対象化しているといっても過言ではないと考えられます。

「おしゃれな街、代官山」ということについて

この記事の冒頭に、産業能率大学が代官山の商業事業者を対象におこなった「第1回 代官山調査 -代官山エリアの商業・事業者アンケート-」の結果を紹介しました。
産業能率大学では、2007年に「第2回 代官山調査」として、来街者アンケート調査を実施しました。


産業能率大-第2回代官山調査- 街の現状評価 2008年3月

この表は、「街の現状に関する下記の7項目を一つひとつ評価し、該当するものに〇をつけてください」という設問に対する回答結果です。
70%以上の回答者が「そう思う」に〇を付けた項目は、「オシャレな大人の街である」「のんびり、ゆっくり歩ける街である」「高級感があり個性的な店が多い街である」の3つでした。


産業能率大-第2回代官山調査- 一言でいうと 2008年3月

この表は、「あなたにとって代官山はどんなところですか。各々についての考えを具体的にご記入ください」という自由記述式の設問に対する回答です。
「一言でいうとどんな街ですか」という問いに対して、最も多くの人が回答に記述した言葉が「おしゃれ」という言葉であり、他の言葉との比較でも圧倒的に多く記述されていたことがわかります。


産業能率大-第2回代官山調査- 気に入りのキーワード 2008年3月

これは、「気に入っているところは…」という問いに対しての回答です。「店」という言葉が最も多くなっています。

2009年には、東京都のシナジースキーム事業の一環として、東京商工会議所渋谷支部が「代官山の地域価値に関するWEB調査」を実施しました。これはインターネットを利用したアンケート調査ですが、事前に約10,000人を対象にスクリーニング調査が実施され、そこからアンケート対象者を代官山への来街経験のある人1,000人、来街経験の無い人300人に絞り込んで実施されました。


代官山の地域価値に関するweb調査-代官山の魅力- 2009年

これは、代官山への来街経験がある人を対象に「代官山の魅力」について問うた設問に対する回答です。圧倒的に「街全体がオシャレである」と回答しています。


代官山の地域価値に関するweb調査-代官山の魅力の構成要素- 2009年

これは、同じく来街経験のある人を対象に「代官山の魅力の構成要素」を尋ねた結果です。「ファッションのお店」と「雑貨のお店」が1位2位を占めています。

このふたつの調査結果から推測できることは、代官山がおしゃれな街だと思われているのは、単純に「ファッション雑誌などに掲載されている店舗がたくさんあるから」ということに過ぎないように見受けられます。
そういう意味では、1980年代から1990年代にかけて代官山がおしゃれだと評価されていた時代の「おしゃれ」という言葉が示す意味と、2000年以降に人々が感じている「おしゃれ」の意味は異なっているように感じられます。

しかしながら近年では、ファッション誌に掲出される店舗自体の減少が続いており、1990年代には物販店が林立していたキャッスルストリートも、現在では飲食店街のような様相に変化してしまっています。
そんなことも影響しているのでしょうか、最近(2020年頃)では、代官山駅から来街者が出てくると早々に「おっしゃれー」と声に出しながら歩いている人をよく見かけるようになりました。最早、何がおしゃれなのかもわからぬまま、見つけられぬままに、常に「おしゃれ」という枕詞が付いてくる代官山に来たからには、なんとしても「おしゃれがわかる人」のフリをして歩きたいという悲しい願望を抱いてこのまちを訪れる人が多くなったということでしょうか。代官山が空虚な記号と化し、その内実は着実に劣化してきているということを示しているように思えます。


relax 2002年11月号

これは、マガジンハウス発行の雑誌『relax』2002年11月号に掲載されていた小暮徹・こぐれひでこ夫妻宅の写真です。
小暮徹氏は、1970年代から『流行通信』などのファッション誌や広告の分野で数多くの仕事をしてきたカメラマンです。こぐれひでこ氏は、東京学芸大学のクラスメイトだった小暮徹氏と結婚した後に渡仏し、帰国後にファッションブランド「2C.V.」を設立します。(「2CV」とは、シトロエン社の名車であり、フランスを代表する国民車として多くの人々に愛されていました)
その後、こぐれひでこ氏は『流行通信』で「Three minute cooking」の連載を開始することになり、以後イラストレーターとして活躍しました。
このご夫妻は、1979年から青葉台で暮らし始め、写真の住居兼事務所は室伏次郎氏の設計によって1998年に建替えられたものです。

「代官山集合住居計画にはじまる1970年代の代官山」でも記したように、当時の代官山には小暮夫妻以外にも、BIGI創業者の菊池武夫・稲葉賀恵夫妻、写真家の佐藤明・テーブルコーディネーターのクニエダヨシエ夫妻、写真家の大西浩平、レストラン「レンガ屋」オーナーの稲川慶子、歌手の美空ひばり、布施明、天地真理、俳優の渥美清、女優の樹木希林、タレントの芳村真理、SONY創業者の盛田昭夫夫妻などが暮らしていました。そしてこの頃は、お屋敷の名残に住まわれている人々や、外国人専用住宅に住まわれている人々もまだ多く残っていました。
そのような彼らが暮らす代官山には、美空ひばりがひとりでやって来て黙々とサンドイッチを食べる、元カメラマンの佐藤友紀が経営するファミリービジネスのトムスサンドイッチや大人の隠れ家のような飲食店、日本では知る人ぞ知るといった海外ブランドの輸入品を取り扱うNUNOUCHEやRue de Ryuなどのセレクトショップなどのように、彼らの日常的な暮らしを満足させる気が利いた店がひっそりと点在していました。
この当時の代官山の何が「おしゃれ」だったのかと云えば、このような人々の「暮らし向きがおしゃれ」だったわけです。そして、そのような人々の日々の営みが醸し出す雰囲気が、ノスタルジックなところとクールなところが混在するまちの景観と相まって、まちに独特の上質感やゆとり感をもたらしていました。

しかし残念なことに、小暮徹・こぐれひでこ夫妻は2016年に横須賀の海が見える家に転居してしまいました。佐藤友紀一家も約50年間に亘りヒルサイドテラスで営業していたトムスサンドイッチを閉店し、広島県尾道市に移住してしまいました。列記した方々の多くも現在では転居されてしまったか、お亡くなりになってしまっています。審美眼を備えたクリエイティブな人々の暮らしが消えた代官山には、かつてのおしゃれな風情はもう残されていないのかもしれません。

 
「代官山の歴史シリーズ」はこの記事を以って終了します。

代官山の歴史シリーズ

1.江戸時代の代官山
2.内記坂の謎
3.明治時代の代官山の土地利用
4.西郷家と岩倉家
5.てんぐ坂の由来とたばこ王・岩谷松平について
6.西郷従道邸のこと
7.三田用水分水路の水車と明治・大正時代の代官山の産業
8.代官山に東横線が通るまで
9.昭和初期の代官山-お屋敷町の形成-
10.大正時代の都市計画と昭和初期の代官山の道路事情
11.同潤会代官山アパートメントの完成
12.敗戦後の代官山
13.代官山集合住居計画にはじまる1970年代の代官山
14.雑誌記事で辿る1980・90年代の代官山
15.同潤会代官山アパートメントの記憶と代官山地区第一種市街地再開発事業
16.21世紀を迎えた代官山は…

ピックアップ記事

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。