代官山駅復旧を促進する会

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代官山駅改修の経緯

1927年(昭和2年)に東京横浜電鉄代官山駅が開業した当時、プラットホームは3つドア18m車両が6両停車できるだけの長さしかありませんでした。そのため、東横線が輸送力を増強し一般的な各駅停車の車両が4つドア20m車両の6両編成になった時代でも、トンネルと踏切に挟まれていたプラットホームは延長することが出来ず、代官山駅では停車中に中目黒側トンネル内に残ってしまう車両のドアは締切にしていました。
1985年に東急電鉄はさらなる輸送力増強のために、各駅停車の車両編成を4つドア20m車両の8両編成にすることにしたのに伴い、代官山駅の延伸工事をおこなうことを決定しました。
計画では、中目黒側トンネル内に1両分のプラットホームを増設し、渋谷側にある渋谷二号踏切を閉鎖し、2両分のプラットホームを増設することにし、踏切のあった場所には東急電鉄側で人道橋を設置することとし、渋谷区も区道上の踏切を閉鎖することを承認しました。
そこで1986年には工事のために本駅を閉鎖し、渋谷寄りの、現在LOG ROAD DAIKANYAMAになっている場所に仮駅を設置して延伸工事は着工しました。

反対運動による駅改修工事の停滞

当初の予定では2年間で工事が完了し、元の場所に新駅舎を建設することになっていたのですが、着工後に、踏切の閉鎖に反対する「代官山駅改築に伴う生活環境を守る会」や「代官山仮駅及び二号踏切(廃止対象)を考える会」が反対運動を始めたために踏切部分の工事が中断してしまう事態となりました。

当時の新聞記事によれば、反対派の意見としては「踏切を閉鎖すると細い道路ばかりの地元の交通事情がますます悪化し事故や渋滞を招くので仮駅をそのまま本駅に改築する方がよい」という主張だったようです。
それとともに、なかなか工事を進展させることが出来ない東急電鉄では、当時の代官山駅は東急全線の中でも利用者数が極めて少ない駅だったために、駅自体の閉鎖を検討しているとの噂が流れました。
この噂が耳に入った地元住民の中からは、主婦が中心となって代官山本駅の復旧を促進させる活動が始まりました。

「代官山駅復旧を促進する会」 の活動

1987年(昭和62年)の12月に「代官山駅復旧を促進する会」が結成され、翌年の1月にはヒルサイドプラザで渋谷区、東急電鉄の責任者との質疑応答をおこなう「第二回総会」が開催され約300人が出席しました。
併せて会員募集活動が草の根活動によっておこなわれ、最終的に会員総数は1,267人(法人含む)になりました。
同年、1988年(昭和63年)2月22日に開催された「住民説明会」には約700人が出席し、その大半は「代官山駅復旧を促進する会」の会員だったようです。これを受けて、渋谷区長は渋谷区議会において「2月22日の説明会において、二号踏切の立体化ということで多くの住民の方々の賛同を得られたものと受け止めた」と言明しました。
最終的に、3月10日におこなわれた区民建設委員会において「代官山二号踏切の立体化」が正式に通過し、代官山駅復旧は正式に決定しました。

代官山駅改修工事反対運動の実態

踏切閉鎖と本駅復旧が確定した後に「代官山駅復旧を促進する会」が発行した会報「雪だるま-特集号」の投稿記事によれば、反対運動をおこなっていた「代官山駅改築に伴う生活環境を守る会」の代表者は、「キャッスルストリート店舗組合長」や「劇団ひまわり代表取締役」など、大局的に地域の発展を考えるのではなく、当面の自分の利益のためだけに運動している人が大部分で、会に参加している人々も大半がその踏切を利用しそうもない場所に住んでいると書かれていました。つまり、踏切の閉鎖に反対している人々の多くは、「踏切閉鎖反対」を口実にして代官山駅の位置を自分にとって都合の良い場所に移転させることを画策している人々だったということのようです。この行為に対して「代官山駅復旧を促進する会」会員の投稿では「火事場泥棒のような行為」という表現を使っている人が多く見受けられますが、一部の人間の経済的利益追求を地域住民の多くが看過しなかったということのようです。

大局的な視点から地域全体のことを考え行動するという代官山住民の意識はこのときに確立し、その後の様々な地域住民活動の原点になっていると言われています。

『雪だるま -特集号-』昭和六十三年五月十四日発行

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