てんぐ坂の由来とたばこ王・岩谷松平について

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猿楽橋の袂から鉢山中学校の前の道に続く細い路地の先は小さな坂道になっています。その坂の両端には車止めの石柱が建っており、それには「てんぐ坂」と刻まれています。

猿楽町の岩谷松平邸


2014年6月

明治時代の終わり頃に、たばこ王として知られた岩谷松平がこの辺りの13,000坪の土地を購入して広大な屋敷を構えました。
何故敷地の北のはずれに位置するこの坂に名前が付けられたのかと云えば、当時は現在の東横線は開通しておらず、日本で最初の私鉄である日本鉄道の品川線(現在のJR山手線)の渋谷停車場が現在の渋谷駅新南口の辺りにあったので、屋敷の表玄関もそちらの方に向いていたからということではないかと思われます。

『 東京市及附近番地入地圖 』丸善好文館 1916年(大正5年)

その敷地は、現在の猿楽町1番地から9番地までの一帯ではないかと考えられます。岩谷松平がこの土地を購入した頃は、そのほとんどが茶畑だったようです。
※参照:明治時代の土地利用 http://daikanyama.life/?p=1586

『珍物画伝』楽山堂書房 1909年(明42年)

明治42年に発刊された『珍物画伝』という本には、「天狗煙草の岩谷松平は煙草が官業になってから豚天狗となった。澁谷の停車場前にすこぶる立派な家を建てたが例の朱塗りですこぶる立派なものだ。」と書かれています。また、「豚の種類を集めることも又日本一、どこの動物園に行ってもこれくらい沢山に豚を持っているものはないそうで、帝国大学の豚研究所と指定されているそうな。」とも書かれており、この場所で大規模に養豚業をおこなったことがわかります。

たばこと塩の博物館「明治のたばこ王 岩谷松平 渋谷邸写真」

岩谷松平の息子であり、とんかつ屋「かつ吉」の創業者である吉田吉之助が著した十五巻にも及ぶ『庖丁余語』の第四号『肉食談義』には、「豊多摩郡渋谷町字下渋谷の屋敷内には茶畑があり、八十八夜には若芽を摘んで、手もみの茶をつくった。また、野菜畠には、その頃としては珍しい洋菜が作ってあった。赤蕪(ビート)、レイシ、蕃椒(ピーマン)、甘藍(キャベツ)、松葉独活(アスパラガス)、パセリ、セロリ、赤茄子(トマト)など。このほか、甘藷(さつまいも)と玉蜀黍(とうもろこし)は大量に作られて、季節には主食とした。
豚舎には、常時二百頭くらいのヨークシャーとバークシャーがいた。」と書かれています。
吉田吉之助について書かれた『「かつ吉」主人・吉田吉之助』(米田健三著)には、本人の弁として「東京府豊多摩郡渋谷町下渋谷七一五番地というのが、僕が幼少期を過ごした家です。<中略>書生と女中が三十人ほどいた。」と書かれています。
また、岩谷松平の孫で女優の森赫子(かくこ)が著した自伝『女優』には、「広い屋敷内には農場や牧場もあって、馬や牛、それに豚もいた。庭の一隅に草葺きの家屋があり、みんなして草屋と呼んでいたが、そこには十人近くのお爺さんのお妾がいた。だから子供もたくさんいた。早く本妻を亡くしたお爺さんの部屋へは、そのお妾さんたちが毎日交替で世話をやきに来ていたらしい。
だからお爺さんの子供や孫は五十何人もいて、五十二郎というのが私と同じ年の男の子の名前だった。」と書かれているようです。
ちなみに森赫子は、岩谷松平の次男で家督を継いだ松蔵の妻政子(衆議院議員森肇の長女)の四番目の子供で、後に政子の妹で日本初の女優とも呼ばれた森律子の養女となりました。

『広告の親玉 赤天狗参上!―明治のたばこ王 岩谷松平』 岩田書院 2008年

その一方で、岩谷松平の曾孫にあたる聖徳大学准教授中村七重の講演記録を記事化している『岩谷松平遺品の旅 -広告の親玉 赤天狗参上!―明治のたばこ王 岩谷松平-』(岩田書院 2008年)の記述によれば、「松平は先妻左意子、後妻仲子の2人の妻に先立たれた後は、寺田信という女性と最後まで共に暮らします。おめかけさんというのは正妻がいる場合に使う言葉だと思いますので、この人は内縁の妻と呼ぶのがふさわしいと考えます。渋谷の邸宅にいたのはこの女性だけで、他の女性はおりませんでした。
松平の子供は、左意子との間に2人、仲子との間に6人、寺田信との間に5人で、合計13人生まれました。寺田信との間に生まれた子供たちに、五十之助(いそのすけ)、五十一郎(いそいちろう)、五十二(いそじ)と名づけたことも、子どもの数が50数人いたといううわさのもとになったのでしょう。」と書かれています。
しかし、この文章では東京高商(現一橋大)卒で岩谷商會の番頭だった吉田市恵が養子として引き取った「かつ吉」の創業者吉田吉之助については何も触れられていません。
ちなみに、冒頭に写真を掲載した『珍物画伝』には、1906年(明治39年)に二十歳の妻を迎えたと書かれていますので、これが寺田信のことではないかと推察することも出来ますが、1893年(明治26年)に生まれた子供の母親が寺田信であるとも読める別の記述もありますので、真偽のほどは定かではありません。
一方、1893年(明治26年)頃(後妻仲子存命中)に出版された『東洋実業家詳伝. 第1編』(博交館)の記述では、この時点で「今や二十三男五女を有し而して其幼にして矢折せしもの儘々八人なりと当時紳士社会に於いて君の如く子女に富めるものは殆ど其例を見ざる所なりと云ふ」とありますので、1872年(明治5年)に左意子との間に長男が生まれてからの約20年間で没したものも含めて合計で36人の子供が生まれていることになります。

『岩谷松平と東京市民』南波登發著 陽濤館 1903年

南波登發が著した岩谷松平を誹謗する悪意に満ちた書籍『岩谷松平と東京市民』には、1902年(明治35年)の岩谷家の戸籍謄本の写しが掲載されていますが、これには長男から六男までと十男、十一男が記載され、女児については二女の梅子だけが記載されています。六男の出生が1890年(明治23年)2月20日で十男の出生が明治23年10月11日になっていますので、六男から十男までの5人が1年間の間に生まれたことになってしまいますから、これを正しいと見れば、ひとりの母から生まれた子供たちであるはずがないということになります。また、これらの子供たちはこの年に12歳になっているはずですが、七男から九男までは幼くして養子に出されたのか、戸籍上の記載が無いので、実際に猿楽町の渋谷邸にどれだけの子供たちが暮らしていたのかを知ることは難しそうです。
ちなみに悪意に満ちたこの書籍では、「松平の養父松兵衛の娘サ井(左意子)に私通して長男鷹蔵を生ませ、松平が強姦したナカ(仲子)が二男松蔵、三男吉蔵、二女梅子を生んだが、生まれてすぐに亡くなった四男、五男の母親は誰かわからず、同じ年に生まれた六男竹次と十男北海の母親も誰だかわからない。十一男宗谷の母親は妾の頭のノブ(寺田信)でほかにも二人の娘が生まれたはずだが戸籍に記載されていないので闇から闇へ葬られたに違いない」と書かれています。(松平の曾孫中村七重の講演内容とは矛盾する可能性があります。また、ナカ(仲子)が死亡したのは1897年(明治30年)ですので、この記述が正しいとすれば、ナカ(仲子)存命中にノブ(寺田信)は松平の子供を産んだことになります)
後述しますが、明治23年に生まれた十男が北海と名づけられ、明治26年に生まれた十一男が宗谷と名づけられたのは、1890年(明治23年)から1892年(明治25年)の間に松平が北海道の開拓に着手したことに起因しているのかもしれません。

薩摩屋開業まで


岩谷松平は1849年(嘉永2年)に、現在の薩摩川内市で生まれます。14歳までに両親と兄を亡くした後、1866年(慶應2年)に薩摩藩の御用商人なども務めたことがある、酒造業を営む本家岩屋松兵衛の三女左意子と結婚し本家の養子となりました。18歳の時に鹿児島にある本家の出張店の管理を任されると当時薩摩藩の家老職にあった小松帯刀に税米の徴収方法について建議したところ、それがうまくいったので藩外への持ち出しが禁止されていた薩摩の名産品であるろうそく20万斤の払い下げを受けることが出来、それを大阪で元値が4円以内のものを22円で売りさばき巨額の利益を得ました。このように松平は若い頃から商才に長けていたようです。
1869年(明治2年)には、養父松兵衛が死去し家督を継いだようです。
1871年(明治4年)に宮古島島民が台湾先住民パイワン族に殺害されたことを契機として1874年(明治7年)には陸軍中将西郷従道が独断で台湾に出兵し、その年の10月に宗主国の清との間に日清両国互換条款が締結されました。これによって琉球の日本帰属が国際的に承認されるかたちとなったわけですが、西郷従道と大山巌はその台湾からの帰途に岩谷松平の家を訪れ、松平に東京へ進出することを薦めたと『東洋実業家評伝 第1編 岩谷松平』には書かれています。
1877年(明治10年)に西南戦争が勃発し、この戦役で家屋が焼かれたことを契機に上京し、8月20日に銀座3丁目(現松屋銀座付近)に「薩摩屋」の屋号で店を構え、薩摩絣(さつまかすり)や鰹節、そして国分のたばこなど、薩摩の特産品を販売し始めました。この時に所持していた資本金はたったの140円だったので、店頭に並べることが出来た商品はほんの僅かだったそうです。他店から商品を借りるなどして商売を続けていたところ同郷の軍人が薩摩飛白(薩摩絣)を購入して以来、東京では本来冬着の飛白を単衣として着ることが流行し、薩摩飛白の売れ行きは好調で、1881年(明治14年)には大阪京都地方で売れ残っている飛白を買い占めて、新品であるかのように見せかけて店頭に並べて販売するなどして巨利を得たと『明治豪商苦心談』には書かれています。
※『明治豪商苦心談』では、明治13年に上京し開業したことになっています。
また、1878年(明治11年)には、大久保利通や吉井友実など薩摩出身の明治新政府の要人が集まる会合で、額面100円の公債証書(士族に交付された金禄公債)が暴落し3~40円になっていることを知ると、三井銀行創立時の監事で後の日本銀行理事になった三野村利助から5万円の融資を受けて薩摩に戻り、旧士族から70円で買い取りを始めました。公債証書はすぐに額面100円以上の金額に値を戻したために大きな利益を得ることができ、想像するにこのときの利益で借家だった銀座3丁目の店を買い取りさらに拡大して、1880年(明治13年)4月に呉服太物と煙草販売の店を開業したようです。

「天狗煙草」岩谷商會創業



『広告の親玉 赤天狗参上!―明治のたばこ王 岩谷松平』 岩田書院 2008年

岩谷松平が銀座3丁目の店を改装して呉服太物と煙草販売の店を開業したその年(1880年)に、薩摩の煙草で紙巻きたばこを製造することを思い立ち、木挽町(現在の築地)に製造所を設立して紙巻きたばこの製造販売を開始しました。さらに、一流商人の交流を目的とする「日本商人共進會」を設立し、その第一回会合には真っ赤な装束で出席したと伝えられています。東京・芝の紅葉館で行われたその発会式で、「日本の商人は、欧米に比べればまだまだ赤子であるとして、その戒めのために赤子を示す“赤服”を着ている」と述べました。その後、この演説は「岩谷の産衣演説」として世間に知られるようになったそうです。
1883年(明治16年)には、渡米した弟の右衛の紹介によって米国のギンポール商會と特約を締結し、同社の煙草の日本代理店として輸入煙草の販売も開始しました。
翌年1884年(明治17年)には、煙草葉を効率的に紙で巻く機械を開発し、口付紙巻たばこ「天狗煙草」の発売を開始したようです。
岩谷松平は早くから広告の重要性に着眼し、派手な広告をおこなったことが知られています。そのキャッチフレーズのひとつに「慈善職工○万人」というのがありますが、これは、乞食や囚人、刑務所からの出所者などを雇い、自社の工場で働かせたり、当時は埃が酷かった銀座通りに水撒きをさせたりしていたようで、このようにして雇っていた人々のことを慈善職工と呼んでプロモーションに利用していたわけですが、見方を変えれば早くからCSR(企業の社会的責任)活動に取り組んでいたと見ることもできます。

『日本之名勝』史伝編纂所 1901年 (明治33年)

銀座3丁目の店は、間口25間(約46メートル)にも及んだと云われており、屋根から柱まですべてが真っ赤に塗られ、正面には巨大な天狗面と岩谷自筆の「東洋煙草大王」「勿驚煙草税金○○万円」の大看板が掲げられていました。
建物内には店舗、工場、住居があり、現在まで残っている住居部分の写真には、屋上にあった庭園や応接室、寝室などが写っており、当時の様子を伺い知ることができます。


『広告の親玉 赤天狗参上!―明治のたばこ王 岩谷松平』 岩田書院 2008年

『広告の親玉 赤天狗参上!―明治のたばこ王 岩谷松平』 岩田書院 2008年
※写真の人物は岩谷松平ではありません

1890年(明治23)第3回内国勧業博覧会で岩谷商會が出品した紙巻たばこが有功賞三等を獲得しました。さらに、宮内庁から日清戦争での恩賜のたばこの製造委託を受けるなど、「天狗の岩谷」の名は「天狗煙草」とともに明治の世に広まっていったようです。
そして1901年(明治34)の長者番付では、岩谷松平は服部時計店(現、セイコー)創業者の服部金太郎と共に最上位となりました。

初代日本商工会議所会頭の藤田謙一と煙草専売法制定


初代日本商工会議所会頭となる藤田謙一は、1899年(明治32年)に大蔵省専売局に職を得て、煙草専売制度立案を担当していました。明治政府は日清戦争後の財政増収の必要から葉煙草の専売制度を1898年(明治31年)から施行していましたが、煙草産業全体の専売化を図るためにトラストの形態をとる英米の煙草産業と日本国内に乱立していた煙草会社を競争させ、日本の煙草会社を弱体化させることでこれらを安価で買収しようとしていたと云われています。そのため岩谷商會も経営が苦しくなっていたようですが、神戸財界の名士である後藤勝造が岩谷松平にこの藤田謙一を推挙したことから、松平は岩谷商會の経営を藤田謙一に任せることにしました。そのため藤田謙一は1901年(明治34年)に大蔵省を退官し、翌年の3月に岩谷商會に支配人として入社したそうです。そこで藤田は個人商店であった岩谷商會を会社組織に変更し、本人は専務取締役に就任すると経営的に大成功を招いたそうです。
結局、植民地帝国主義の推進によって欧米列強諸国の仲間入りを目指していた明治政府が、朝鮮半島と満州の権益をめぐって開戦した日露戦争の戦費調達を目的として、1904年(明治37年)に煙草の製造販売が国によって専売化されましたが、そもそも自らを「国益の親玉」と名乗るほどの国粋主義者だった岩谷松平は、この専売制度に反対の立場をとるのではなく、むしろ働きかけた側だったとも云われています。
1912年(明治45年)3月1日の『實業之日本』には、
「銀座の本店を始め十三ヶ所の製造所と、二百餘ヶ所の請負所、並に一ヶ年五百餘萬圓の商内(あきない)を爲せる營業權、まつた巨額の貯藏品を包(くる)めて僅か三百萬圓足らずの金にて惜(あつ)たら怪?の種を捲きあげられて以來は、ドウした譯か、突然怪しき姿を帝都に潜めて行衛を暗(くらま)せるこそ不審(いぶかし)けれ、」
と記載されているようですが、岩谷松平の曾孫中村七重の記述によれば、
「専売が実施されたときに、松平が国からもらった保証金は36万円。一方ライバルであった村井吉兵衛は交付金180万円のほかに1120万円受け取ったとあります。」
というように記述されています。
しかし、鈴木商店記念館の資料『伝記「藤田謙一」』には、
「明治三十七年七月、専売制度になって煙草製造販売業岩谷商会は政府に買収されたが商会は高利を得た。日露戦争始まるやわが国の韓国進出を見こし、藤田は岩谷と相謀り、朝鮮に日韓印刷会社を輿して各種の良書を出版、世道人心に貢献した。明治四十年十一月から大正六年十二月まで同社の社長となり巨利を博した。」
と書かれています。
ちなみに、明治時代には、他に「牡丹たばこ」の千葉松兵衛(東京、千葉商店)などたばこの製造業者は5000余り、銘柄は実に10万種にもなっていたそうです。

『東京市京橋區全圖』 明治四十年一月調査

これは岩谷商會廃業後の1907年(明治40年)の銀座付近の地図ですが、岩谷商會があった場所は「東京煙草第一製造所」になっています。

株式会社電通 創業者 光永星郎と岩谷松平


電通の創業者 光永星郎は、明治の中頃に民権運動の渦中に身を投じた政治青年で、20代の時新聞記者となり、日清戦争では特派員として従軍した体験から、新聞社にニュースを供給する通信社の設立を思い立ったそうです。しかし、通信業単独では採算がとれそうもないので経営基盤の確立のために、1901年(明治34年)7月1日に、新聞社に広告を取り次ぐ日本広告株式会社を創立したそうです。
岩谷商會とそのライバルである株式会社村井兄弟商會との「明治たばこ宣伝合戦」では、様々な宣伝活動がおこなわれ、銀座界隈でパレードをおこなうなど熾烈なものであったと云われていますが、光永星郎が広告を重視するきっかけになったのは、パレードをする岩谷に声をかけられたことだとしているそうです。
1931年に満州事変が起こると、政府は日本の情報通信機関を一元化して国家的通信社を作る必要があるとして、電通とライバルの日本新聞聯合社を統合して同盟通信社が設立されました。これによって、1936年6月1日に電通は広告代理業専業となって新発足しました。

凸版印刷と岩谷商會


「明治たばこ宣伝合戦」では、ポスターや引き札(チラシ)などにカラー印刷等が使用されましたが、そこではたばこを包装するパッケージをいかに美しく、購買欲をそそる魅力的なものにするかのデザインと印刷技術における競争意識の問題もかかわっていました。

「たば塩コレクションに見る ポスター黄金時代」 たばこと塩の博物館

村井兄弟商會は外国の最新技術を導入した東洋印刷株式会社を設立し、岩谷商會は、大蔵省紙幣寮印刷局を辞めた凸版室長、木村延吉と彫刻室長、降矢銀次郎が1900年(明治33年)に創業した凸版印刷合資会社と組んで、村井製品に対抗できる精緻なパッケージやポスター等の宣伝物を手がけていきました。これが、現在の凸版印刷株式会社の前身です。
村井兄弟商會が設立した東洋印刷株式会社は後に専売局の伏見分工場となり、戦後は日本専売公社の京都印刷工場となりました。

日本家畜市場株式会社と岩谷松平


岩谷松平の孫吉田吉之助の『肉食談義』によれば、
「江戸初期に入来した蕃薯(甘薯、さつまいも)の耕作も進んでいたので、青木昆陽(甘薯先生)はここの種芋を江戸へ移植して、全国へ流布した。そんなわけで、薩摩にはもともと豚の飼料が具わっていて、中国豚も琉球を通じて既に渡って来ていた。<中略>1877年になって西南戦争で家を焼かれ、食うに困った薩摩の一青年が上京した。城山が陥る前の暑いさかりで、旅に疲れていた彼は、新橋で汽車を降りると何気なく駅前の西洋料理屋の暖簾をくぐり、豚肉料理を注文したがおあいにくと断られ、それではというのでビフテキを注文した。久しく栄養に欠けていた彼はビフテキを食べると、その味が全身に漲り渡り、大死一番の気慨が肛の底に固まり、そこで揮の紐を締め直したということである。思うに、不敵な悟りであったであろう。彼は故郷の豚が東京で巾がきかないのを見て、食わず嫌いの生民の頑固の風を洗わんと欲して、終生、豚の普及に努めた。」
と書かれています。
また、中村七重の『岩谷松平遺品の旅』では
「たばこ事業から手を引いて、渋谷で養豚業を始めた動機も国益でした。日本人の体格が欧米人より劣っているのは肉食をしないからであると考え、日本中の農家が豚を飼育するようになれば、農家も潤い、日本人も強い人種になり、ひいては世界の平和にも役立つなどという主張をとうとうと『経済事情』という雑誌に載せております。」
と記載されています。
このように、岩谷松平は生涯を通じて養豚業に対する思い入れが強かったようですが、1892年(明治25年)12月1日には、牛鍋屋「米久」の竹中久次と牛鍋チェーン店「いろは」の木村荘平、岩谷松平の3人は乱立する屠殺場を買収し統廃合を計画して、白金共同屠畜会社の層場(白金)と東京家畜市場会社の田中町屠場(浅草千束)との両社を合併して、日本家畜市場株式会社を誕生させたようです。 そして、翌年の1893年(明治26年)には、都内の定められた5屠場の全てを独占したということでした。

岩谷松平の政治活動と『二六新報』と『國益新聞』の誹謗中傷合戦


『二六新報岩谷天狗大争論之顛末』大賣捌所 日本館本店 明治34年

岩谷松平は1901年(明治34)5月から1903年6月までの期間、東京市会議員を務めました。その後、1903年(明治36)3月には第8回衆議院議員総選挙に東京府東京1区から出馬して、衆議院議員にトップ当選しました。同じ選挙で東京2区から出馬し当選した秋山定輔が社長をつとめる『二六新報』は当時、三井財閥攻撃、娼妓自由廃業などの醜聞暴露キャンペーンによって民衆の人気を博す大衆紙になっていましたが、1901年(明治34年)4月3日には向島で最初の「労働者大懇親会」を開催するなどして、労働者側の立場をとっていました。
そこで、1901年(明治34年)の長者番付で最上位となり1903年には衆議院議員に当選した大資本家岩谷松平を攻撃対象とするキャンペーンを展開しました。
二六新報には
「日本廣しと離(いへど)も岩谷松平の如く公々然獣行を恣(ほしいまま)にする人狒々(ひひ)はなく恥も人情も知らぬ不徳漢はなきに何時の間にやら今日を成し東京の眞中に跋扈(ばっこ)するまで勢力を得たる元はと尋ぬれば亦悉(ことごと)く欺騙(ぎへん)?消ならざるはなく人非人國賊の所為ならざるはなし」
などと書かれたらしく、その後岩谷松平はこれに対抗するために『國益新聞』を設立し反論したようですが、この論争は、岩谷商會とそのライバルの村井兄弟商會の下劣な誹謗中傷合戦になったようで、後に『二六新報岩谷天狗大争論之顛末』という書籍が出版されるほど当時は話題になったようです。
先述した南波登発の『岩谷松平と東京市民』もこの流れに合わせて出版されたようです。

岩谷松平の北海道開拓失敗


『財界名士失敗談 上巻 224頁』(毎夕新聞社 明治42年)には、
「明治二十三年、両国の中村楼で親睦会の席上、北海道庁長官の永山武四郎君から是非自分に北海道を一巡して篤(とく)と視察してくれまいかとの話があった。
<中略>
而(しか)して、留萌、宗谷、稚内間に十二ヵ所、一千万坪の好殖民地を発見して札幌に帰ってきた。
以上の土地は自分個人として借地の許可を得た。従って自分一個の力で天塩川の両岸方五十里の地を東西両本願寺に譲り、本願寺の力で殖民をやる計画を立てた。
<中略>
然るに本願寺の議会では自分の交渉を斥けた。
是に於いて北海道経営には北海道協会を盛ならしむる外なしと信じ、貴衆両院議員及北海道に関係ある官民を網羅して故近衛公爵を会頭に戴き、日本郵船と炭礦鉄道に出資さして其間に少からざる尽力を為し、又其後人夫百名を連れて実地の第一着手を個人的に遣ってみた。
然るに二十五年、今の内蔵頭渡邊千秋氏が北海道長官になって来て、犬糞的復讐をやられた為め、自分の事業に大頓挫を来たしたことがある。」
と書かれています。
ちなみに、先妻左意子が産んだ長男鷹蔵は、1892年(明治25年)3月14日に分家し、北海道北見國宗谷郡稚内村に本籍を移しましたが、1898年(明治31年)2月25日には元の戸籍に戻されています。戻る前の廃戸した本籍地は京橋区三十間堀一丁目になっていますので、父親の北海道開発のために北海道に移住しながら、失敗したために早々に銀座三丁目の岩谷商會の裏手に戻ってきていたものと考えられます。
既述の「日韓印刷会社」「日本家畜市場株式会社」「國益新聞」以外にも、岩谷松平には数多くの会社の設立に関与したという記録が残っています。

そして、岩谷松平は1920年(大正9年)に脳溢血のため猿楽町の自宅で亡くなったとされています。

「天狗煙草」で一世を風靡した岩谷松平は、その行動が奇抜で人々の耳目を集めた有名人であったため数多くの記録が残っていますが、一部には捏造と見られるものもありそれぞれに矛盾するところもありますので、特に代官山に移ってきて以降の姿については多くの謎が残されています。

この岩谷家の所有であっただろうと推測される敷地内に、松岡直治郎が創業した「谷渡り人物印」のズボン釣りの「松直商店」の工場が建設されますが、この工場を1916年(大正5年)に撮影したとされる写真が残っています。またその写真の説明には逸見治郎商店(現在のヘンミ計算尺株式会社)も写っていると記載されています。(1963年までヘンミ計算尺株式会社の本社はここにあったようです。但しここにあった工場は1924年に火災に遭い、その後1941年に和光市に移転したそうです)
一方、別の資料では「松直商店」は1917年(大正6年)に日本橋馬喰町で設立され渋谷(猿楽町)に工場を建てたとの記述もあり、事実関係には若干の矛盾があります。
しかしいづれにしても、岩谷松平が購入した広大な敷地は、岩谷松平の生前中から少しずつ切り売りされていたのではないかと推測することができます。

代官山の歴史シリーズ
1.江戸時代の代官山
2.内記坂の謎
3.明治時代の代官山の土地利用
4.西郷家と岩倉家
5.てんぐ坂の由来とたばこ王・岩谷松平について
6.西郷従道邸のこと
7.三田用水分水路の水車と明治・大正時代の代官山の産業
8.代官山に東横線が通るまで
9.昭和初期の代官山-お屋敷町の形成-
10.大正時代の都市計画と昭和初期の代官山の道路事情
11.同潤会代官山アパートメントの完成
12.敗戦後の代官山
13.代官山集合住居計画にはじまる1970年代の代官山
14.雑誌記事で辿る1980・90年代の代官山
15.同潤会代官山アパートメントの記憶と代官山地区第一種市街地再開発事業
16.21世紀を迎えた代官山は…

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